チャート方式・『四次元時空の哲学』入門 (4)

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 「第1章 相対性理論と四次元時空」 の論旨

 それでは、第1章の論理展開の骨組を紹介いたします。
 本書の最重要のキーワードの一つに、「同時刻の相対性」があります。この概念が、本書の展開の大前提になっています。
 本章の[前半]では、この「同時刻の相対性」を考えねばならない背景である、相対性理論の基礎部分を解説し、そこで、「四次元時空」という世界像が生まれたいきさつを説明します。
 そして、[後半]では、相対性理論が提示した「四次元時空」に対して、その実在性、さらには、決定論的世界像をめぐっての哲学的考察を展開します。

(図04_1)第1章 相対性理論と四次元時空

相対性理論の大前提には、「相対性原理」「光速不変の原理」があります。これを公理とした数理体系として理論が表現されたりもします。
 ここで、「相対性原理」というのは、「宇宙の法則は、どんな乗り物(座標系)に乗っている立場に対しても普遍的に成立しているはずだ」という思想です。これが、慣性座標系に限定されたのが特殊相対性原理、加速度系(重力系)にまで普遍的に拡張されたのが、一般相対性原理です。コペルニクスから、ガリレオ、ニュートン、アインシュタインという近代物理学の発展は、この思想の進化だと捉えることもできると思われます。いうなれば、地球中心観からの離脱です。
 誤解してはならないのは、「相対性原理」は、いわゆる認識論上の「相対主義」ではないということです。一般法則の普遍性故に、現象としては、絶対的かと思われていた事柄が相対的になる場合があるということは言われますが、認識主体の条件如何で、対象はどうとでもなるという思想とは無縁なのです。
 もう一つの「光速不変の原理」、これは、どんな乗り物(座標系)に乗っている立場に対しても、光の速さは、一定の値を示すというということですが、これも、法則の普遍性をうたった、相対性原理の一種ともみなせますが、一見、常識と矛盾しているので、特別に原理として強調されました。
 この宇宙平等思想は、近世以降の自然科学の世界モデル構築の指導原理として働き、観測事実を裏付けることにも成功し続けてきたものです。相対性理論は、「光速」もまた全宇宙に平等に与えられた法則(定数)として位置づけたわけです。そして、これはマイケルソン&モーレーの実験以来、様々な局面で確証されてきた観測事実となっています。
(→補足4-1)

 この「光速不変」から、ただちに導けることに、同時刻の相対性があります。同時刻の絶対性を保持したままで、「光速不変」を説明するのは、絶望的に困難です。裏返せば、同時刻の絶対性の観念からなかなか逃れられないがゆえに、「光速不変」は、従って「相対性理論」は、多くの人にとって、謎めいたものとなってしまうのです。

 私は、ガリレオ・ガリレイの相対性原理は、アインシュタインのそれから照らしてこそ、その歴史的意義が鮮明にできると思っています。進化前の生物の形質の評価は進化後の形質に照らしてこそ、鮮明にできるようにです。アインシュタインは、光速不変の問題を、同時刻の相対性に基づき解決しました。つまり、彼は宇宙における同時刻の相対性を発見したのです。これに照らして考えると、ガリレオの成し遂げたことは、同地点の相対性の発見だと、言われるべきではないでしょうか。「同じ場所」というのは、立脚している乗り物しだいで意味が変わる、という現代人にとっては至極当たり前のことも、昔から常識だったわけではなく、ガリレオは、この発見を地動説の強力な根拠の一つにそえたのでした。ニュートンはその思想を緻密な理論形式に体系化しました。アインシュタインは、それらを継承し、かつ発展させたのです。自分たちのいる場所こそが唯一の宇宙の中心なのではないという自覚、これを、時間についてまで拡張し、自分たちのいる現在の時刻こそが唯一の宇宙の現在時刻というわけではないという自覚に到達したのです。
 そのことは、座標変換の数式にも表れています。

(図04_2)ガリレオからアインシュタインへ

 私はこのような相対性理論観を取ります。しかし、これは現在、唯一の相対性理論観ではないことも、付言しておくべきでしょう。例えば、公理主義的、あるいは規約主義的解釈に基づいた相対性理論観もあります。それだと、「同時刻の相対性」は、定められた原理から演繹されるあまたの命題の一つでしかなくなり、これの持つ世界観的重要性がクローズアップされません。私は、これには不満で、だからこそ、本章の前半部では、同時刻の相対性に基づいて、「時間の遅れ」や「距離の縮小」のような基礎的相対論効果の解説を展開してみせたわけなのです。あと、相対論の解釈をめぐって「実体主義」か「関係主義」か、といった議論もあるようです。ここで「実体」とは、「関係」とはということをきっちり問い直す過程抜きに安直な結論は慎むべきかもしれませんが、概して、この対立軸においては、私の立場は「実体主義」に近いかなと思っています。ただし、反省的媒介を携えた「実体主義」や、「実在論者」であろうというのが、私の基本スタンスです。

 いぜれにせよ、相対論を否定しない限り、「同時刻の相対性」が成立していることは、誰もが認めることと言ってよいでしょう。どんな相対論の教科書にも載っている基礎中の基礎なのですから。
 それで、これを前提に考えると、「過去」と「未来」を隔てる境界である「現在」(それが幅のあるものであれないものであれ、)の客観的絶対性はなくなってしまいます。
 私は、この点を、距離を隔てて、互いに速度を異にする他者との関係で、論じました。ミンコフスキー時空図は、単独の原点と時空軸だけで考えるのではなく、距離を隔てた複数の時空軸で考えてこそ、その意味を鮮明にできるというのが、私の持論です。

(図04_3)同時刻の相対性と決定論

 それで、結論として、相対性理論が許容する決定性に関しての世界観は次の三つのうちのいずれかでしかありえないということが導かれます。
  (1)過去も未来も完全に決まっている。(決定論)
  (2)過去も未来もともに決まっていない。(多世界論?)
  (3)あるのは今の私のこの意識のみであり(自我中心説/独我論)、過去は決まり、未来は決まっていない。

 この中で、私が選ぶ世界観は「決定論」です。「独我論」は、寂しがり屋の私には向きません。世界に無限の自由度を求める「多世界論」は、論理的に否定しきれないものがあることは認めつつも、とりあえず、拒絶することにします。なお、誤解のないようにここで補足しておきますが、私の拒絶した「多世界論」というのは、この今の私(たち)に直接関与したりされたりする宇宙を場合の数だけ想定するという思想であって、「我々の知るこの宇宙以外に別の宇宙がたくさんあるかもしれない」という思想全般を拒絶しているわけではありません。また、四次元を超える余剰次元の存在を否定するものでもありません。もしかしたら、われわれのこの宇宙は、砂漠の中一つの砂粒のようなものかもしれないという思想も拒絶しません。むしろそうじゃないかと積極的に思ったりもします。もちろん、確証はないから、あくまで可能性としてとしか言えませんが。ただ、このような想定は、全ての可能性を尽くした宇宙があるはずだという思想とは区別した方がいいと私は思っています。多世界論については、「別の次元に、別の私がいて、。。。」なんて議論が、最近はよくささやかれているみたいですが、しかし、私は、こういう議論に対しては、別の次元にいる別の私って、「私」なのか、「他人」と違うんか、なんて突っ込みを入れたくなるのです。私は、単に複数の宇宙や超次元が存在するというだけの世界像なら、決定論でカバーできると思っています。が、本書では、とりあえずはっきり存在がわかっている四次元時空を前提に、決定論的世界観の展開を試みます。

 ただ、「決定論」といっても、ここで導かれた決定論は、「われわれは完全な予測が可能である」ということを含意はしていません。これは因果関係に基づいた決定論ではないのです。それで、本書では、従来の「因果的決定論」に対して、これを「時空的決定論」と呼ぶことにいたしました。
 量子力学や非線形(複雑系)科学では、「予測不可能性」という意味で非決定論的世界像が提起されていると解釈されています。本章の最後は、これら、特に量子力学の観測問題との関連で、「時空的決定論」について考察するという展開になっています。 (図04_4)時空的決定論




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