チャート方式・『四次元時空の哲学』入門 (5)

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 「第2章 連続性と矛盾の問題について」 の論旨

 次に、第2章の論理展開の骨組を紹介いたします。
 ここでは、以下の三つテーマが論じられます。
  • ゼノンのパラドックスの解明 (1~4)
  • 四次元空間の幾何学的特性が感知されない理由 (5)
  • 連続性と論理矛盾についての考察 (6~8)

    (図05_1)第2章 連続性と矛盾の問題について

     この章は、第1章で提示された「実在する四次元時空」という観点を受けて、それをベースに、論理学的な問題の一つである、「連続性と矛盾の問題」についての考察を試みたものです。
     そして、「時間と空間の質的差異の解明」という第三章のテーマへの橋渡しにもなっています。

     「アキレスと亀」のパラドックスは、大変有名で、時間論を扱う際にも、よく取り上げられるテーマです。アキレスは、亀を追いかけているのですが、亀のいる場所に到達したら、亀は少し前進していて、さらにその場所に到達しても、やはり少しだけ前進していて、これをいくら(無限に)繰り返しても、同様のことが言えるわけだから、結局、アキレスは絶対に亀には追いつけない、というパラドックスです。もちろん、実践すれば簡単に追い抜けることは示せますが、これは、そもそも「運動」なるものが論理的に把握可能なことなのかどうかが問われているのです。
     実際、このゼノンの推理自体には誤謬はないのですが、この推論が成立しえるのは、追いつくところの限りなく短い直前(空間的にも時間的にも)のところまででしかないわけです。これは、無限小を扱える数理を発展させることで、解明されました。そういうわけで、通常この問題は、集合論や、微積分学などの数理にいざなう形で、解決案が提示されていく展開になる場合が多いです。
     しかし、本書では、その辺の叙述は一切割愛しました。私は無限小や連続性を無矛盾な公理体系としてまとめあげることをもって、この問題の解決が完了したとは思えないのです。それでは、この問題が特に時間に対して提起されてきていることの意味がぼやけてしまうからです。

    (図05_2)空間的連続性と時間的連続性

     そもそも、「無限」というのは、思考においてのみ確認されるものであり、それ自体を観測によって検証できるものではありません。そして、空間的広がり(哲学用語では「延長(extention)」)については、無限分割出来るか否かが、その存立根拠として掲げられることは、通常ありません。空間の広がりは、とりあえず自明だからです。しかし、時間については、我々の意識は直接的には持続(persistence)として捉えられ、その観点から、運動について考え詰めていくと、矛盾にはまりこむのです。しかし、時間を、四番目の空間次元として、捉えるのならば、少なくとも存在論的には、空間的広がりと同等の観点で捉えられ、連続性や無限分割可能性の問題とは、独立にその広がりを認可できるのです。
     要するに、運動する点が存在するのでなく、存在しているのは、時空的に伸びた世界線なのだ、と考えれば、そこに「矛盾」の入る余地はなくなるのです。


     しかし、そのような、四次元的広がりを持ったものが真の実在だとしても、(第1章はそれを示したわけですが、)われわれが直接体験するのは、「持続する時間」、「運動する三次元的物体」という形態であるという現実は、否定しようもないわけで、われわれは、現実の世界を四次元的な広がりとして感知できていない。それは何故なのか、ということを考えないわけにはいきません。
     このテーマは、第3章において再度取り上げられることになりますが、ここでは、四次元時空の幾何学的構造にスポットを当て、その視点から論及できることを、述べてみました。
     空間と時間の大きな違いの一つとして、前者が行ったり戻ったりできるのに、後者は、戻るということができず一方通行的であるという点が挙げられます。これは、「光速の壁」が、世界線をUターンできなくさせているということで、説明がつきます。他にも、単純な空間次元の次元拡張であれば、あってしかるべき幾何学的特長がこの四次元時空では見出せないということが色々指摘できるのですが、基本的にそれを不可能にさせているのは、「光速の壁」だと、私は理解しています。


     時空の広がりは、時空の連続性を不可欠の存立根拠とする必要性はないだろうと、私は思っています。時空が非連続的構造であっても、その広がりは存立しうると考えます。しかし、時空はそれでは非連続的なものに違いないと単純に言い切れるかというと、それはそれで、そう簡単な話ではなさそうだと思っています。現実は、非連続的構造と連続的構造が複雑に絡み合っているように思われます。


     「時間についての論理」について考えていくと、そもそも論理的思考というのは、時間の流れの中に没入している状態から超脱するところに成立しているのではないかと思えてきます。本章の最後は、そのあたりの考察を書いてみました。


    (なお、本章の内容は、出版以前に当サイトで掲載していたものです。)→
    「アキレスと亀」
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