(2013/02:発行(3月)) 「季報 唯物論研究」第122号 にて掲載 (特集 「スピリチュアル」の解明)

「「魂」という世界モデル」

(Knowledge and Labor)

          村山 章 (Murayama, Akira)             2012年12月 執筆
(概要)
本稿は、本誌112号、116号に引き続いて「世界モデル論」としての知識論(認識論)、並びに時空論をベースに、特集テーマ「スピリチュアリティ」に概括的にアプローチする。
(キーワード)
  「不滅の魂」という世界モデル、魂の進化モデル、唯一の今と時空スキャン、先輩自我と後輩自我


1.

 少し前(二〇一二年十月)のことだが、『来世不動産』というショートドラマを見た。(「世にも奇妙な物語」というオムニバス形式のテレビドラマの一話。脚本:バカリズム=升野英知)
 ある男(高橋克美)が、死後最初に行き着いた場所は不動産屋だった。そこでは、魂が宿る次の体を斡旋していた。男は来世も「人間」を希望するが、それはとても人気があって、彼はポイント不足で入居できないと、そこの店員(升野)がパソコンの画面を見せて説明する。生前の善行、悪行がプラス・マイナスでカウントされ、ポイントが決まるのだ。店員は、男の希望を聞きつつ、土佐犬とかミル貝とか乳牛とか伊勢エビとかを紹介していく。どれにも気の進まない男に、最後に提案されたのがセミだった。セミの最期の一週間は、人間の夜の営みの百倍の快楽を体験できるのというのだ。それに、セミは地中に七年間いて悪行をする機会がなく、ポイントを貯めやすいから、ここはいったんセミになっておいて次を狙うというのも一手だと、薦められる。男はそれを聞き、来世はセミに入居することに決める。そして、七年後、地上に出て、「セミ、サイコー!」と絶叫しながら過ごす。ふと見ると、かつて自分がいた病室があるではないか。彼は窓の近くで、そこの患者に「次はセミがお薦めですよー!」と叫ぶのであった。
 なかなか、笑えた。面白い作品だ。なるほど、魂にとって、肉体は、物件なわけだ。ポイント貯めたくて何回もセミに入居する魂さんも結構いたりして。

2.

 この話、もちろん「魂は不滅」という思想を前提に作られている。(人間に限定していないところは東洋的だ。)これは、単なるお笑いの作り話だが、「魂は不滅」という思想自体は、人類の文化にあまねく浸透していて、科学の発達した今日においても、これの否定ができない人の方が多いような気がする。理論理性としては明確にこれを批判したカントも、「実践理性の要請」という形で霊魂の不死を掲げざるをえなかった。この思想の生命力は強靭だ。人類がどの段階で、この思想を定着させたのかについては、いろいろ推測は試みられ得るだろうが、確かなことはわからない。しかし、かなり太古の石器時代からあったことは確実なようだ。だが、他の高等哺乳類ではどうなのか?人類以外で、「不滅の魂」という世界モデルを群れの中で共有している動物がいるという報告はまだ聞いたことがない。
 ところで、私は、「世界モデル論」という認識論を自分の思考の基軸に据えていこうとしてきている。(1) これは、認識の基底層には、区別をしたりしなかったりする能力と、対応付けをしたりしなかったりする能力があるとし、それをベースに、人間(ないしそれに準ずる認識主体)の知識のあり方について、次のようなモデルを対応付けていく考え方である。すなわち、存在モデル、方法モデル、価値モデル、そしてそれらを抽象化し媒介する論理モデルという4つの局面の相互関係で世界に観念的モデルが対応付けられていくというモデルである。超軽量・コンパクトな認識論だが、これをもってして、数学・物理学からあらゆる分野の科学、労働過程、文化事象に言及することが可能だ。(2) もちろん、これ自体が認識という事柄についての一つの存在モデルにすぎないわけだが。ともかく、私は今後、これを思索や叙述のツールとして使うことを宣言させていただく。
 さて、ここでは、まず、何故、「不滅の魂」という世界モデルがかくも人類に浸透し定着し続けているのかについて考えてみたい。ひとつには、我々は、意識のある状態から、ない状態へ(もしくはその逆) の移り変わりを想像する事すらできないということが挙げられるだろう。せいぜい眠りを対応させられるくらいだ。意識にとって自己意識の存在ほど、自明なものはなく、その生成・消滅ほど不可解なものはない。そして、発達したコミュニケーションを基盤にして存立してきた人類の意識にとっては、意識のあるものに対応させて世界を解釈することが、もっとも親和性が高く、神話や妖精、妖怪などに基づく世界モデルが普及してきた。

3.

 これに対して、意識的な存在の関与なしに、事物の生成・消滅を説明できる一大パラダイムが、19世紀以降に登場する。進化論という世界モデルである。今日では、生物の形態や機能に関しては、遺伝子レベルでの自然淘汰まで遡って説明されるようになり、さらに、このモデルの人間の行動パターンや文化現象への適用も模索されている。(リチャード・ドーキンスのミーム論等)そうした流れの中で、進化論は、魂の存在についても、その適用が試みられている。ニコラス・ハンフリーもそのパイオニアの一人だろう。(3)
 個々の思想や理論の完成度についての議論は措くとして、魂という言葉で語られてきている現象に対する存在モデルは、大きく分ければ、(永遠不滅の非物質的な)魂というものを実体として直接措定するモデルと、いかなる意識的存在をも必要としない存在群が相互に関与し合う一連のプロセスから意識的存在や現象の存立をも描き出すモデルとに分類できるだろう。
 一般に、存在モデルは、実際には、方法モデルや、価値モデルと連携し、不可分一体のものとして成長していく。人間の生活過程に浸透すればするほどそうなるだろう。魂モデルは、とてつもなく重厚な方法モデル群、価値モデル群に支えられて定着している。数々の聖なる言葉にも彩られて。それに対して、進化モデルは、歴史が浅いからまだ、存在モデルが中心になっているにすぎない段階だ。

4.

 私は、さらに時空論的観点からこの問題にアプローチしようとも思っている。
 そもそも、「不滅の魂」という世界モデルをより根底で支えているのは、時間についての世界モデルである。すなわち、唯一の現在が移り変わっていく、という考え方である。だがこれは現代の物理学には、あまりそぐわない。事物は時空として存在しているという存在モデルが整合的だ。すると、変化していく唯一の現在という我々の表象は謎めいてしまう。これに対し私は、客観的に存在している時空を無数の自我が過去方向から未来方向にスキャンしているのが、意識のあり方であり、それらは、互いに交信することは物理的に不可能だから「唯一の今」という表象が成立しているという存在モデルを立てれば、矛盾しないと考える。(4)これが矛盾を解決する唯一のモデルかどうかについては議論の余地はあるかもしれないが。
 ここで、より未来に位置してスキャンしている自我を「先輩自我」、より過去に位置するものを「後輩自我」と呼ぶことにしよう。「私」には、無数の後輩自我が存在している。仮に「今」の私が死の到来で消滅したとしても、それは、私のある一断面の時空スキャンが完了したにすぎない。私は時空内に四次元的に存在し続けている。だから、無に帰すことを恐れて、魂のようなモデルを想定してそれにすがる必要はないのだ。
 そもそも、魂という概念で表現されているものは、具体的な様々な「思い」という事象の総体であり、それは具体的な行為、それと不可分な無意識をも含む身体のあり方や他者や社会、自然全体との諸々の関係の総体として存在している。抽象的な非物質的実体としてではなく、一連の諸事象の総体として時空内に存在している。諸関連自体が私を構成しているわけで、その意味で、私は私だけで私なのではない。
 それでいいではないか、それ以上の何を望むというのか?私は、永遠にポイントを稼ぎ続ける実践理性を備えた抽象的魂でいたいとは思わない。
 時空内に確定された、その自分の人生が納得のいかない人生だったらどうするのかって?いい質問だ。納得のいかない人生だったら、納得しなければいい。それも人生ではないか。それだって、ありきたりだけれど、かけがえのない、宇宙にひとつしかない慈しむべき人生のひとつだ。


   2012年12月


(註)
(1) 本誌112号『知識論の構築にむけて』、116号『知識と労働』参照
(2) ただし、証明はされていない。予想である。
(3) 『ソウルダスト──<意識という魅惑の幻想>(Soul Dust:The Magic of Consciousness)』(ニコラス・ハンフリー(Nicholas Humphrey)著 柴田裕之訳 紀伊國屋書店)では、動物がモニター機構としての「意識ある自己」を持つに至ったことの優位さ、とりわけ、「生き甲斐」のもたらす効果について進化論的に興味ある考察がなされている。
(4) これについては、拙著『四次元時空の哲学』第三章2節にて展開。


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