あとがき
はじめに
現代の物理学の支柱をなしているのは相対性理論と量子力学である。相対性理論は、量子力学の立場からは古典論と評価される。しかし、相対性理論の量子力学に対する関係は、ニュートン力学が相対性理論に対するような関係とは異なっている。
ニュートン力学は、相対性理論において光速が無限大とみなしても差し支えないようなスケールの速さの運動を記述したときの近似法則として包摂されている。ニュートン力学はこのような関係を量子力学に対しても持っており、プランク定数が無視できるような巨視的物体の近似的記述として包摂されている。言うなれば、ニュートン力学は相対性理論からも量子力学からも基礎付けが可能な理論として、物理法則の究極性という地位を完全に喪失した状態にある。あるのは技術的有用性という地位のみである。(もっとも、ニュートン力学の有用性は、今でも広範に確固たる地位を築いており、それに比べると相対性理論の有用性などは、今のところ、高エネルギー物理学などの殆ど限られた分野にしか見出すことができない。だが、今、問題にしたいことは理論の究極性である。)
一方、相対性理論について考えてみると、これは量子力学に包摂され、基礎付けされてしまったわけではない。相対性理論は微視的な世界の記述には無力だという意味で、重力以外の力の法則を基礎付けられないという意味で、理論の究極性は失ってはいるが、量子力学からこの理論を基礎付けていくことはできないし、それどころか、量子力学がより完全な形を得るための基本的な骨格を提供してきてさえいる。(ディラックの相対論的量子力学。)特殊相対性理論は量子力学の前提なのだ。そして、我々は宇宙の時空構造のラフ・スケッチをする上で、一般相対性理論にまさる道具をまだ手にしていないのである。
従って、究極の物理法則は何かという問題設定の上で、ニュートン力学は忘れてしまっても差し支えないが、相対性理論はそういうわけにはいかない。だから、我々が、「物理的必然性とは何か」というテーマに挑戦していく上で、まず、相対性理論に注目することは大変重要な意味を持っていると思われる。
およそ理論というのは抽象理論であり、抽象概念の調和した結合であるのだから、ある理論の何たるかを論じようとするのならば、まずそれがどういう抽象であるのかという点を明確にしておくべきであろう。
相対性理論は事物の距離・時間・質量という属性に関する理論である。この属性はあらゆる物体に共通して存在する。そしてそれ以上の属性はとりあえず一切捨象される。この抽象はニュートン力学に至るまでにすでに確立されてきているわけだが、ニュートン力学では、これらは全く別個の独立した概念として与えられ、それら相互の間で演算上の関係付けがなされたにすぎないのに対し、相対性理論では、これらはひずみを持った時空の幾何学のそれぞれの一側面として位置付けられる。つまり、時空幾何学の中に、距離・時間・質量という概念は統合されてしまったのである。
だが、私は相対性理論については「同時刻の相対性」という点に注目したい。これは特殊相対性理論から導かれるいくつかの奇妙な結論の一つくらいに考えるべきではない。これこそ相対性理論を相対性理論たらしめる要なのである。時空幾何学という記述形式はニュートン力学でも可能であるが敢えてその必要性はなかった。だが、同時刻の相対性は時空幾何学を力学の必要不可欠な記述形式にしてしまったということなのである。
「同時刻の相対性」さえ理解すれば、相対性理論はなんら不思議な理論ではないと言ってもいいと私は思う。だが、「同時刻の相対性」を理解するというのは、一方でとても恐ろしいことでもあるのだ。とりえず、相対性理論の内容を説明していこう。
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一 光速不変の原理と同時刻の相対性
まず、物体の運動について。ここで言う運動は、力学的に最も抽象化された運動、質点の位置の時刻の推移にともなう変化である。質点とは、例えば物体の重心ように一定の質量を代表させた点である。質量とは、物体に力を加えて加速させるときの抵抗と考えられる物体の属性である。(重力の大きさを規定する量としての質量については、一般相対性理論に関連して述べられるべきことなのでここでは無視しよう。)
ある一定時間にどの方向にどれだけの距離を質点が移動したかを表す概念が「速度」である。その大きさを「速さ」と言うことにする。
ところで、「速度」という概念は何の何に対する速度なのか、その基準を確定しないことには全く意味をなさない概念である。地球に対して、ある方向に時速100kmで走る物体も、同じ方向に時速90kmで走る物体からすれば、それは時速10kmにすぎない。この「何に対する」にあたる速度の基準を座標系という。あるいは「観測者」という言い方をすることもある。ただ、ここで言う「観測者」に要求される属性は、ある時刻にある位置にいて、あるものに対してある速度を持っているという純粋素朴な存在形式以外にはない。一般相対性理論においてはその「観測者」を取り巻く質量(エネルギー)密度の運動状態がどのような分布になっているかという属性も加味しなくてはならないが、いずれにせよ、この「観測者」は人間である必要はもちろんのこと、何等かの感覚機能を備えたものである必要も全くないわけで、運動法則を記述するに際して位置や速度の基準となるための属性さえあれば、それは石ころでも何でもいいのである。だから、相対性理論も、ニュートン力学と同様、決して人間の主観を前提として内部に含んだ理論ではない。
相対性理論はさしあたり、加速運動をしていない座標系(慣性座標系)を基準にして物体の運動を考える。これを「特殊相対性理論」という。この理論は次の二つの原理に基づいて展開される。
(1)すべての慣性座標系に対して、光の速さはその光源の運動に関係なく一定不変である。
(2)すべての慣性座標系において観測される物理法則は互いに同等である。
二番目の原理は、ガリレオ・ガリレイ以来、力学の常識であった。ところが、電磁気学において、これが成り立たなくなってしまった。電磁波(光)を伝える媒体と考えられるもの(エーテルと呼ばれた)に固定した特権的座標系を想定しなくてはならない事態になってしまった。ところがそのような座標系は見出せなかった。光は、地球の公転軌道上の運動方向とは無関係に、どちらの方角に進むものでも厳密に一定の速さを持つということが実験的に証明されてしまった。(マイケルソン・モーレーの実験) これは、太陽の周りを公転する一惑星にすぎない地球が全宇宙の中心的基準となる特権的座標系になっていると考えれば説明はつくが、とうてい受入れられる考え方ではない。
この事態に対し、アインシュタインは「光の速さ」というものは、そもそもすべての慣性座標系において共通した物理法則の一つだと考えてしまった。これが第一の原理である。
しかし、異なる座標系において共通した速さという考えは、基準座標系なしには意味をなさない「速さ」という概念の常識に全く矛盾してしまう。
それでは図で説明しよう。以下、互いに相対的な速さ v で離れていく二つの座標系をS系、S’系とし、空間はx軸(x’軸)、時間はt軸(t’軸)で表す。空間は実際は三次元だが、ここでは簡単のため、互いに離れていく方向の成分のみに注目してそれを空間軸とする。なお、ここで空間、時間を測る単位について言っておかなくてはならない。
力学で通常使われている単位系は時間を秒、空間をメートルにとっている。だが、相対性理論が扱う物体の運動の速さは、光速ないし、それと比較できるようなとてつもない大きさである。光速は毎秒約3億メートルであるから、もしグラフの1単位を秒とメートルで表現したら、光の運動はx軸と殆ど平行になってしまって、意味のある表現にならない。そこで空間の単位を非常に大きくとるか時間の単位を非常に短くとるかしなくてはならない。ここでは後者をとって、光が1メートル進むに要する非常に短い時間、3億分の1秒を時間の1単位とする。すると、光の速さの値は1である。光より遅い物体の速さは絶対値が1未満の小数(光速に対する比の値)で表現される。
図1・1は、「光の一点」(とりあえず、ここでは光の一点を電磁波のある位相と解釈しても光子と解釈してもよい)の動きを従来の力学の常識から図示したものである。今後、一般に質点の動きを時空座標上で表す線を「世界線」と呼ぶ。図で、45度の傾きの線は光の一点の動きを表したもので、「光の世界線」と呼ぶ。
さて、S系からは光の速さは1単位の時間に対して1だけ進むから、1である。だが、光に向ってS系に対し速さ v で動いているS’系からすると、光の速さは1単位の時間に対して 1-v しか進まないから、 1-v である。v が大きくなればなるほどS’系から測った光の速さは小さくなる。これが速さというものに対する常識的な考え方である。しかし、相対性理論はS’系から測っても、光の速さは同じ1でなくてはならないと主張する。これはどう理解するか。
図1・1で S’系の時間軸t’は v だけ傾いている。だが空間軸x’はS系と共通である。相対性理論では、空間軸x’も図1・2のように v だけ傾くものだと考えるのである。
すると、S’系おいても光は1単位の時間に対して1だけ空間方向(x’軸と平行方向)に進むと考えられるから速さは1となる。
ところでこの空間軸を傾けるということはどういうことか。それは同時刻の絶対性が崩壊したことを意味する。
図1・1において事象点Aと事象点Oは、S系においてもS’系においても同時刻であり、事象点Bはどちらの座標系からもともに未来の出来事である。ところが図1・2においては、事象点Oと同時刻にあるのはS系にとっては事象点Aだが、S’系にとっては事象点Bなのである。S系にとっては未来にあるBという出来事は、S’系にとっては同時刻に起こったことになる。これが「同時刻の相対性」であり、これは従来の力学との差異をもっとも特徴付ける事柄だと私は思っている。(注1)
(注1)
アインシュタインは光がある地点まで行ってそこで反射して戻ってくる過程を想定し、光速が不変であれば、S系でもS’系でも行きも帰りも同じ速さなのだから光が反射するまでの時間はそれぞれの系で戻ってくるまでの時間の2分の1の時間であるはずだということから同時刻の相対性を論じた。
S系にとって反射する時刻にいるSの観測者とS’系にとって反射する時刻にいるS’の観測者とはどちらの系からみても互いに同時刻に存在していないことが示される。
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二 異なる座標系間の時間・空間の単位について
次に問題になることは、時間や空間の単位について、S系とS’系とでは互いにどういう関係にあるのかということである。
図2・1でOAがS系における単位時間だとしよう。それとS系にとって同時刻であるOBがS’系の単位時間だと仮定しよう。従来の力学では、これで何ら問題はなかった。ところが、S’系にとってBと同時刻の点はAではなくB1である。S系からはS’系の時間単位は同じなのに、S’系からはS系の時間単位は自分の時間単位よりも長いことになる。つまり、S系からは自分も相手も同じ時計の進み方をしていると判断されるのに、S’系からは自分より相手の時計の進み方はテンポが遅いと判断されてしまう。
しかし、S系もS’系も互いに同等な慣性座標系であり、物理法則は互いに同じでなくてはならないわけだから、このような事態は容認されない。唯一の解決方法は図2・2に示すように、どちらも互いに相手の単位の長さが同じ率だけ長くなっていると考えることである。
図2.2において、S系の単位時間はOAで、S’系の単位はOBである。これは、OAとOBには共通の物理的時間、例えばある結晶の振動周期とかが対応しているという意味である。
S系から判断すると、Aと同時刻のS’の点はA1であり、これはS’系の単位時間OBが経過しきる以前の時刻である。一方、S’系から判断すると、Bと同時刻のSの点はB1であり、これもS系の単位時間OAが経過しきる以前の時刻になっている。相手の時計のこの遅れ具合、すなわち、単位時間の伸び率は互いに同等でなくてはならない。それをγとすると、
OB = γ OA1
(S系から判断したS’系の単位時間)
OA = γ OB1
(S’系から判断したS系の単位時間)
となる。
一方、空間についても同様の事態が生じる。S系における単位の長さをOCとし、S’系における単位の長さをODとする。これは、どちらにも共通の物理的長さ、例えばある周波数の電磁波の波長とかが対応しているという意味である。
OCに対してODをどう取るかが問題である。もし、図2・1のように、S系にとって、OCと同じ距離と判断されるところにODを取ると、S’系にとっては、ODと同じ距離はOCではなく、OD1と判断されるから、長さをx’軸という同時刻のラインで判断するとS系とS’系、どちらも単位長さは同じであるのに対して、x軸という同時刻のラインで判断すれば、S系の単位長さOCよりもS’系の単位長さOD1の方が短いということになってしまい、二つの座標系は互いに同等でなくなってしまう。互いに同等であるためには、図2・2のように考えるしかない。すなわち、S系から判断して単位長さOCと同じ距離OC1よりもS’系の単位長さODは伸びており、また、S’系から判断して単位長さODと同じ距離OD1よりもS系の単位長さOCは伸びている。その伸び率は互いに同じとして、それをγとすると、
OD = γ OC1
(S系から判断したS’系の単位長さ)
OC = γ OD1
(S’系から判断したS系の単位長さ)
となる。
なお、我々は物体の構造を判断するのに同一時刻上(すなわち空間軸と平行なライン上)でどうであるかという形で判断する。従って、空間単位の伸びについては、次のような言い方になる。すなわち、図2・2で、S系の空間軸x軸上では、S’系の単位を表す物差しOD1はS系の単位OCよりも縮んでおり、一方、S’系の空間軸x’軸上では、S系の単位OC1はS’系の単位ODよりも縮んでいる。互いに相手の物差しは自分のよりも縮んでいるのである。
ところで、図2・2は、光の世界線を軸に対称な形をしている。これは、光の速さが1となるように空間、時間の単位を設定したからである。このような単位設定に従えば、時間単位の伸び率γと空間単位の伸び率γは同一の値であると考えられるので、ここでは同じ記号γを使わせてもらった。これは両座標系間の相対的速さ v に依存する関数であるが、具体的にどういう関数であるかは次の節で導く。
以上のような時間、空間の単位について互いに相手の方が伸びていると判断しなくてはならない事態が何故生じたかといえば、同時刻が相対的になってしまったからに他ならない。S’系の空間軸が傾くということがなければ、このような問題は生じなかったわけであり、従来の物理学ではそのようなことはなかったのである。
なお、図2・2では、S系を直交座標、S’系を斜交座標にしているが、直交か斜交かに本質的な意味はない。図2・3のようにS系を斜交系、S’系を直交系にしてもよいし、両方とも斜交系にしてもよい。物理的内容は同じである。
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三 ローレンツ座標変換
ある事象の位置と時刻が何であるかを言明するには必ず基準となる座標系がいる。
図3.1は従来の物理学で事象Pの位置と時刻を表す仕方を、図3・2は相対性理論で同様のことを表す仕方を図示したものである。事象PはS系では、(t,x)で、S’系では、(t’,x’)で、表される。
S系とS’系間の速さ v が与えられれば、一方の座標値から他方の座標値への変換が可能になるはずである。従来の物理学では簡単である。図3・1を見れば明らかなように、時間は全座標系で共通だから、変換を考える必要はなく、空間座標の変換のみを考えればいいわけで、時間tだけ経過すれば、vtだけ空間的隔たりが両座標系間に生じるのだから、変換式は以下のようになる。
t’ = t
x’ = x - vt
(S系からS’系へ)
または
t = t’
x = x’ + vt’
(S’系からS系へ)
これをガリレイ変換という。
それに対して相対性理論では、時間座標も変換される。図3・2で、OBをt’とすると、OAはS系おけるt’である。B1はS’系において点Bと同時刻にある点で、前節で述べたように単位時間はγ倍になるのだから、
t’ = OA = γOB1
の関係が成立つ。OB1は幾何学的に判断して、
OB1 = t - vx
であるから、結局、
t’ = γ(t - vx) ・・・[1]
という関係式で時間の座標変換が表わせられる。
一方、空間についても、ODをx’とするとOCがS系におけるx’であり、D1をS’系におけるDとの同地点とすれば、単位長さがγ倍になる関係から
x’ = OC = γ OD1
であり、 OD1 = x - vt
であるので、
x’ = γ(x - vt) ・・・[2]
が空間の座標変換式である。
逆にS’系からS系への変換は図3・3に示すとおりである。(ここでは、S’系を直交系にして表現している。)変換式は、
t = γ(t’+ vx’) ・・・[3]
x = γ(x’+ vt’) ・・・[4]
となる。これは、当然のことながら、[1]、[2]式の v の符号が変っただけである。
ここで、[1]式のt、xに、[3]式、[4]式を代入すると、
t’ = γ2{(t’+vx’)-v(x’+vt’)}
これを簡単にして、
1 = γ2(1-v2)
γは正の値と考えていたので、
γ = 1 / √(1-v2)
これが、単位の伸び率を表す式である。
以上をまとめると、
t’ = γ(t - vx)
x’ = γ(x - vt)
t = γ(t’+ vx’)
x = γ(x’+ vt’)
ただし、
γ = 1 / √(1-v2)
これをローレンツ変換という。
なお、この変換式は光速が1となるように時間、空間の単位を設定した上で求めたものであり、相対性理論のテキストによっては、これと違った、もう少しシンプルでない形の変換式が書かれてあるかと思われる。それは、時間、空間の単位を秒、メートルで取り、光速の値がc(=秒速30万km)となる形で求められたものである。
先のローレンツ変換式のtをctに(t’をct’に)、vをv/cに置き換えて変形すれば、この通常の単位による変換式が求められる。
例えば、[1]、[2]式は、
t’ = (t-(v/c2)x)/√(1-(v/c)2)
x’ = (x-vt)/√(1-(v/c)2)
となる。この式からは、vがcに比べて非常に小さいときは、ガリレイ変換になることがよくわかる。
ローレンツ変換はこの形の方が馴染みやすいという方も多いかもしれない。しかし、光速が1となるように単位を定めれば、時間と空間が光の世界線を軸に対称となる関係から、座標変換式も対称的な形になる。理論内容を理解する上ではこのような時空単位の設定は大変合理的であると言えよう。
さて、ローレンツ変換とガリレイ変換の違いについて見てみると、第一に、時間座標の変換にvxという項が加味されること、第二に、時間、空間ともにγ倍という係数が係ることである。
第一の点については、両座標系間に単位距離あたり、vだけの時間的隔たりが生じるということである、これは、同時性が座標系によって異なることそのものを表現している。
第二の点については、前節で述べたような事情に基づくことであり、これも同時刻の相対性に起因したことである。
ところで、歴史的には、このローレンツ変換の発見は相対性理論の発見に先行している。電磁気学の法則が不変に保たれるには座標変換はこうあるべきはずだという形でローレンツがすでに数学的に確定していたのである。ただ、時間、空間に対する世界像そのものを変革してしまおうという発想はなかったので、その物理的意味はアインシュタインの1905年の論文が出るまでは謎のままであった。
アインシュタインは電磁気学とは無関係に力学の一般的な根本法則としてこのローレンツ変換を導き出し、その前提に立って、電磁気学を基礎付けた。
対象の客観的叙述は、その発見史、理論形成史の叙述とは注意深く峻別しないと無用な混乱を起こす。相対性理論は当時の電磁気学上で議論されていた問題についての理解がなくても理解できるものなのである。ところが、相対性理論が知りたくば、電磁気学のマックスウェルの方程式くらいは勉強しておけと言わんばかりのテキストが少なくなかったので苦労した。
満たすべき条件がいくつか準備されたのち、それらを満たす一次変換(変換は比例的なものであろうから)がどのような形であるべきかという問題設定でローレンツ変換式が導出される。その上で、この新しい座標変換規則に基づいて、これまでに述べてきたような同時刻の相対性、時計の遅れ、物差しの縮み等の事態が数学的に導出されていくのである。我々は、前提となる変換式の物理的意味がよくわからないままで、いきなり、異様な物理的結論をつきつけられていく。
このような叙述ではあたかも座標変換規則そのものが第一義的なものであるかのような印象を受けてしまう。すなわち。写像関係、関数関係そのものが、時間や空間をはじめとする物理量を基礎付けている根本的存在であるという世界観を持ってしまう。
だが、唯物論の観点からすれば、客観的な時空構造の在り方が互いに相対速度を持つ異なる座標系(観測者)間の写像関係を規定していると考えるべきであろう。この客観的時空構造とは、光速が絶対不変の限界値となるように、距離を隔てた事象間の同時性が座標系に応じて可変的になるような構造のことであり、このような「同時刻の相対性」という構造は、すべての慣性座標系は互いに同等であるべきならば、時間、空間単位は互いに相手の方が伸びていなくてはならないことを必然的に導く。そして、以上の前提の上で、座標系間の変換規則を求めれば、それはローレンツ変換となるのである。
この程度のことならば、一次変換とかベクトル・テンソルとかのような洗練された数学的概念装置を準備しなくても、中学生レベルの数学の知識で充分説明ができるのである。
「同時刻の相対性」という事実は、後述するように私にとっては人生観そのものを変えさせられるくらいショッキングな事柄であった。従って、何故このような結論が導かれねばならないのかと深く考えさせられた。そのうちに、これこそが宇宙の根本原理なのだと思うようになった。ローレンツ変換からこの事実を導出するのではなく、この事実からローレンツ変換を導くようなやり方が相対性理論の正しい叙述だと思うようになった。そう言うわけで、この点に関して叙述の仕方については、私は強いこだわりを持っている。
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四 速度の合成則
ローレンツ変換という座標変換を確立すると、そこから様々な結論を導き出して行ける。
ローレンツ変換は座標(時刻と空間位置)についての変換だが、ある時空点から別の時空点までの間隔の成分(時間と空間距離)について全く同じ形式で変換できる。何故ならそれらの成分とは一方の時空点を座標系の原点に取った場合のもう一方の時空点の座標値のことだからである。
時間間隔をdt、空間間隔を(dx,dy,dz)とすれば、
dt’ = γ(dt - vdx)
dx’ = γ(dx - vdt)
dy’ = dy
dz’ = dz
ただし、
γ = 1/√(1 - v2)
(4・1式)
がS系での成分からS’系での成分への変換式である。
逆変換は、
dt = γ(dt’ + vdx’)
dx = γ(dx’ + vdt’)
dy = dy’
dz = dz’
(4・2式)
である。
S’系はS系からx軸方向に v の相対速度で移動する観測者の座標系であるが、このS’系から速度
V’ = (Vx’, Vy’, Vz’)
で移動する物体の速度は、S系の観測者からはどれだけの速度になるのかについて考えてみる。それを
V = (Vx , Vy , Vz )
とすると、従来の力学では、
Vx = Vx’ + v
Vy = Vy’
Vz = Vz’
(4・3式)
である。座標系間の相対速度が単純に加算されるだけである。この前提に従えば、速度はいくらでも大きな値を取ることができる。vが 0.8(光速の80%)、Vx’も 0.8 とすると、Vxは 1.6 となり、光速を超えることができる。
しかし、相対性理論の速度の合成則は単純な加法ではなくなる。
速度というのは、移動距離を経過時間で割ったものだから、
Vx = dx / dt
Vy = dy / dt
Vz = dz / dt
(4・4式)
と表現できる。S’系については、これに「 ’」をつけたものである。
ここで、4・4式に4・2式を代入して整理すると、
Vx = γ(dx’+vdt’)/γ(dt’+vdx’)
= ((dx’/vdt’)+v)/(1+v(dx’/dt’))
= (Vx’+v)/(1+vVx’)
Vy = dy’ /γ(dt’+vdx’)
= (dy’/dt’)/γ(1+v(dx’/dt’))
= Vy’/γ(1+vVx’)
= Vy’√(1-v2)/(1+vVx’)
Vz = dz’ /γ(dt’+vdx’)
= Vz’√(1-v2)/(1+vVx’)
(4・5式)
が得られる。 Vx’、vは、ともに0から1までの値を取るとすれば、
Vx = (Vx’+v)/(1+vVx’) ≦ 1
であることは、この式を
((1/v)-1)(1-vVx’) ≧ 0
と変形してみれば頷ける。これは、光速以下のどれだけ大きな速さを加え合わせても光速(=1)を越えることはできないことを示している。光速は速さの限界値なのである。
さらに奇妙に思えることは、座標系間の運動方向(x軸方向)と垂直な方向の速さの成分Vy、Vzが変化することである。Vx’、vがともに0から1までの値を取る場合で考えると、Vy、Vzは、Vy’、Vz’よりも小さな値を取ってしまう。従来の常識からすれば、座標系間速度と垂直な方向の速度成分は何ら影響を受けないはずである。
何故このような事態が生じたのか、計算式だけから判断するのでは物理的イメージが伴わないので図示しよう。
図4・1は相対論以前、すなわちガリレイ変換に基づく速度の合成則を表現し、図4.2は相対論、すなわちローレンツ変換に基づく速度の合成則を表現している。S’系(
t’,x’)とS系(t,x)とは、共通のx軸方向にvの速さで移動している関係にあり、ある物体は、S’系を基準にすると、x’軸方向にVx’ y’軸方向にVy’の成分の速度で運動しているとしよう。その物体をS系を基準にして速度を測定したらどうなるかがここでの問題である。その値をx成分がVx y成分がVyであるとしよう。
図では、
v = 0.5 (光速の半分)
Vx’ = 0.5 (光速の半分)
としている。図4・1では、Vx は v と Vx’を足した1であり、光速に達してしまう。また、横方向のVy 、Vy’は当然のごとく等しい。ところが、図4・2では、Vx は 0.8 となり、光速の半分と光速の半分を加えても光速にはならないことが示されている。これは、S’系ではS系に対して空間軸が傾いている、すなわち同時刻が相対的であるところから生じている。光速以下の速さをいくら加えていっても、速さを判断する切り口である空間軸が違うため、光速は超えないのである。横方向(y軸方向)についても、同時刻の相対性のため、1単位を示す時間間隔がS’系とS系とでは異なってしまうので、1単位の時間に対して移動する距離すなわち速さも異なってくるのである。
このように、速度の合成則を見ても相対性理論の根本は同時刻の相対性にあることが納得できるのではないだろうか。
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五 同時刻の相対性の衝撃 ----過去と未来の相対性
同時刻が座標系すなわち観測者の運動状態によって相対的に異なるということは大変ショックであった。それは過去と未来の絶対性が崩れるということであるからだ。
私は相対性理論を知るまでは、過去は完全に決定された事象の集合であり、未来は未だ決定されていない世界のことだと思い込んでいた。実在するのは運動する現在の事物のみであり、過去は過ぎ去ってもうないもの、ただ、過去がどうであったかは完全に決定されている、そしてそれを土台に現在が次々と形成されていき、現在が形成されていく方向性として未来というものが想定されている、従って未来というものは未だ存在せず、何も決定はされていない、観念上の世界の事でしかないという世界観をもって生きていた。
この世界観は否定しなくてはならない。同時刻が相対的である以上、絶対的な過去、絶対的な未来というものはありえないからだ。
距離を隔てて互いに接近しつつある二人の観測者、「私」と「彼女」について考えてみよう。
図5・1で、私の現在が a0であるとしよう。私にとって同時刻にある彼女は b0である。これが彼女の現在だとしよう。彼女は私に向ってある速さで接近しており、彼女にとってb0と同時刻にある私は、a0ではなく、a1なのである。私の現在の彼女の現在は私の未来なのだ。
私の過去はa0とb0を結んだ線より下の部分で、それより上は未来である。それに対し、彼女の過去はb0とa1を結んだ線より下の部分で、これは私にとって未来である部分を含んでいる。
過去はすべて決定されているものであるということが真であるならば、私に向って来る彼女にとって過去に属するある私の未来の一部は決まっていると言わねばならない。彼女の過去に属する私の未来は、私と彼女との距離を大きくすればいくらでも大きくすることが出来る。あるいは、彼女にとって決定された事象a1と、私を基準にして同時刻にあるのはb1で、b1は決定された事象となり、そのb1と、彼女を基準にして同時刻にある事象はa2だから、・・・という論法でいけば、私の未来も彼女の未来も、ともにすべて決定された事象の集合になってしまう。過去が決定された事象の集合であるならば、未来も決定された事象の集合でないとおかしい。
それでは、私と彼女が互いに離れていく場合を考えたらどうなるだろうか。
図5・2で、私の現在a0と同時刻にある彼女はb0である。その彼女にとって同時刻の私は、a0より過去のa1である。
もし未来は決定されていないとすれば、私の今の彼女にとって、今の私は未来にあるのだから、今の私は決定されてはいないということになる。それでは今の私は何なのであろうか。
同時刻が相対的であるということは、決定、未決定ということに関して過去と未来を絶対的に区別することができないということを意味する。過去も未来もともに決定されていると考えるか、ともに決定されていないと考えるか、どちらかしかない。しかし、過去、現在は決定された事ではないという思想は歴史と人生の哀しさに対してあまりにおめでたすぎるような気がして採用する気にはなれない。されば、過去も未来もすべては決定されているという考え方を選択するしかあるまい。
そうは言っても、過去は決定され未来は決定されていないという思想にあまりにも慣れすぎていた私はなんとか未来は決定されているという考え方を否定できないものかと色々考えざるをえなかった。
ここまでの論理をよく反省してみよう。未来は過去と同様、すべて決定されているという結論は以下の前提から導きだされている。
(1)同時刻は相対的である。
(2)現在の私は決定されている。
(3)決定されている事象よりも過去の事象は決定されている。
ちなみに、(2)と(3)を次の(2)’、(3)’に置き換えると過去も未来と同じくすべて決定されていないという結論が導かれる。
(2)’現在より未来の私は決定されていない。
(3)’決定されていない事象より未来にある事象は決定されていない。
(2)、(3)と、(2)’、(3)’がともに正しいようにするためには、(1)の前提が否定されていなくてはならない。すなわち、同時刻は絶対的でなくてはならない。だが、そうなると光速不変の原理が否定されなくてはならない。しかし、現代物理学をニュートン力学に逆戻りさせるという立場は、やはり納得できない。
それならば、「過去」、「現在」、「未来」という概念そのものについて、あるいは「決定」という概念そのものについてもっと批判的に考察してみるべきではないかという考えも出てくる。それに相対性理論についてのこれまでの叙述はごく初歩的な部分でしかないわけで、さらに進んで相対性理論全体を展開していく中で、ここで述べた議論を吟味していくべきもしれない。
さらに、相対性理論は現代の究極の理論理論ではない。量子力学を抜きにして決定論の問題に決着をつけることなどできるわけがない。ましてや、量子力学は決定論的世界像を崩壊させたと言われているのだ。次に続くべき展開は、このような問題意識で進めていかなくてはならないだろう。
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あとがき
本稿は、当初、「季報 唯物論研究」に、「同時刻の相対性と物理的必然性について」という表題で、以下に掲げる構成で連載する予定の上での、第一章として掲載したが、連載形式はやめて、本稿を独立した論文とし、第二章以下は「同時刻の相対性をめぐる諸問題」という別の論文で、論点を集約する形で掲載した。哲学の雑誌に、相対性理論そのものの叙述が中心となってしまうような論述は、趣旨にそぐわないからである。
哲学的論点の中心は、次の「同時刻の相対性をめぐる諸問題」の方にある。その意味で、本稿は、特殊相対性理論の理論内容の確認をして、次の展開に備えるためのものである。
<当初の予定の構成>
「同時刻の相対性と物理的必然性について」
はじめに
第一章 相対性理論と同時刻の相対性 (本稿分)
第二章 相対論的時空像
第三章 量子力学と同時刻の相対性
第四章 物理学必然性について
<参考:「同時刻の相対性をめぐる諸問題」目次>