チャート方式・『四次元時空の哲学』入門 (6)

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 「第3章 時間表象の問題について」 の論旨

 次に、第3章の論理展開の骨組を紹介いたします。
 ここでは、前章に引き続いて、われわれの意識にとっては明白な、「時間と空間の質的差異が、どこからくるのか」について、考察します。もっとも、「時間と空間は、そもそも質的にまるで異なるものであって、それを、同等に扱うことの方こそが、人間の思考の産物にすぎないのだ」という立場もあるわけで、その立場からすれば、時間と空間の質的差異の理由を問うこと事態、ナンセンスだということになるでしょう。
 ただ、私は、同時刻の相対性に立脚した世界観を持とうとする以上、時間と空間の幾何学的次元としての同質性は認めざるをえないとする立場に立ちます。本質的に異質だとする立場において、同時刻の相対性をどう解釈したらよいのか、たいへん苦しくなると思われるからです。

(図06_1)第3章 時間表象の問題について

 それで、私は、「世界は四次元時空として存在しているのなら、何故、流れる時間表象が現象するのか?」という問題に対し、「意識とはそもそも、時空をスキャンするものなのではないか」という世界モデルを提示することで、その解決を試みてみました。
 すると、時空内構造として客観的に存在する物体間の速度とは別に、「時空をスキャンする意識の速度」というものを考えてみる必要性に気がついたのです。これは、意識主体が、「瞬時」と感じる時間の長さ(の規模)で表現でき、おそらく、ゾウの意識は、ネズミの意識よりこの長さが長く、より早く時空をスキャンしていると言えるのではないかなどと考えるわけです。同じ人間でも、状況に依存して、このスキャンする速さは微妙に異なるのではないでしょうか。

 「客観的に存在しているのは、運動する三次元世界ではなく、四次元世界である」という観点からすると、そもそも、客観的な唯一絶対の「今」というものはなく、それは意識における現象だということになります。
 「今」は無数に存在しているのです。
(図06_2)無数の私の「今」

 もっとも、ここで「私」というのは、時空を貫いて存在している、村山章と呼ばれているある男のことを指しているわけなのですが、異なる時刻で時空をスキャンしているそれぞれのスキャナに対し、すべて「私」と言ってしまっていいのかについては微妙です。厳密に言えば、「私」というのは、まさにこの「今」自覚しているスキャナをのみ指しているのであって、この「今の私」より前や後でスキャンしている、村山章と呼ばれている男は、別の「私」だと言うべきなのかもしれません。

 さらに、客観的な「今」は存在せず、「今」とは、意識での現象なのだとすると、明らかに意識を持っていそうもない岩石のような存在には「今」なるものは存在していないと言えそうです。そうなると、「今」意識(もしくは意識に順ずる何か)を何がしかのかたちで持ちえているものとそうでないものとがあるのでないか、その境界は何なのか?といった問題が浮上します。本章では、これを一つの問題提起として叙述してみました。

 本章で一番述べたかったことは、以上の点です。それに、認識論的な議論等を交えつつ、本書は展開されています。

 さらに、関連した問題として、「タイムトラベルについて」「時間の方向について」の問題を扱いました。
 超高速で、はるか遠くに行って戻ってくると何故未来に行けてしまうのかについては、本書を読んで理解できます。また、光速を越えると何故、過去に行けてしまうことになるかについての解説も書きました。光速は加速によっては超えられないから、単純な光速超えで過去に行くのは無理です。それでも過去旅行の可能性はなお、一部の物理学者によって色々と模索されているようです。その辺については軽く触れただけですが、「過去旅行」の難易度は、とてつもなく強烈だと言わざるをえないと思われます。
 時間の流れが、何故、逆方向にはならなく一方通行なのか、といった問題も奥の深い難問です。この問題に対する考察、全くなしですますわけにもいかないと思われたので、思うところを若干書いてみました。


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