(2006/08:発行(10月)) 「季報 唯物論研究」第97号 にて掲載

「時空の存在論国際会議に参加して」


(The participance to the International Conference on the Ontology of Spacetime)

          村山 章 (Murayama, Akira)             2006年6月 執筆

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1.モントリオールへ


 モントリオールは、ずっと雨ばかりで、六月にしては気温が低く長袖でないと寒かった。カナダ第二のこの都市は、ケベック州に属し、日常会話はフランス語、標識等もフランス語で、ところどころ英語が併記されている。地下鉄のアナウンスはフランス語のみだった。ホテルの朝食を食べに行くときはボンジュールと挨拶、夕方、エレベータに同乗した人からはボンソワールと挨拶された。ただ、殆どの人は英語が話せる。ちょっと巻き舌の多いなまりのある英語だったけれど。東のセントローレンス川に近い旧市街は、古いヨーロッパ風の建物が並び、ノートルダム大聖堂の荘厳さは目を見張るものがあった。学生のよく集まるカフェ・レストラン街は、カルティエ・ラタンと呼ばれたりとかで、北米のパリとも言われている街である。しかし、旧市街を離れて西の方に行くとイギリス植民地時代の大学や建物が現れる。他に中華街もリトルイタリーもあり、ロシア系のレストランも目にして、移民の国カナダらしい国際色あふれる都市である。
 ところで、私がここに十四時間以上もかけてやってきたのは、この地のコンコーディア大学で開催される、「時空の存在論国際会議」に是非とも参加してみたかったからである。この会議では、みな英語を話す。発表者のそれぞれのお国なまりが出ていてさすが国際会議だと思った。私としては、英語も苦手なのだが、さっぱりわからないフランス語に晒されていたので、英語でほっとするという妙な体験をした。参加者は、正確には数えていないけれど、ざっと五~六十名くらいだっただろうか。世界十八カ国から集まって来ていると聞いた。日本人は私だけだった。
 この会議は今回は二回目で、初回は二〇〇四年で、二年ごとに開く予定らしい。主催者の中心メンバーであるペトコフ氏(Vesselin Petkov; Department of Philosophy, Science College, and Liberal Arts College, Concordia University)は、夫人も同席し、息子も受付を担当したりの家族ぐるみの取り組みで、この会議に懸けている熱意を感じた。氏は、ここでの討議は歴史だという。夫人はとても親切な方で、遠方から来た人には、一人一人に手土産を配っていた。
 会議は、幾人かの報告者の発表を、二つの教室に別れて行い、聴講者は、そのいずれかを選択するという形式で行なう。いくつかの発表は、皆が合同で聴く。夕方は、レセプションがあったり、ポスター掲示方式の発表を見て討議したりした。最後は、ホールにて、一般相対性理論研究で著名な、Robert Geroch氏 (Department of Physics, University of Chicago)による、公開記念講演で締めくくられた。テーマは「タイム・トラベル」で、多くの学生が集まって来ていた。とても表現力の豊かな親しみの持てそうな話し方で、学生に人気があるのだろう。この講演の結論は、過去への時間旅行は、決定論に立つ限りはありえないだろう、といったところか。当会議の初日も氏の発表から始まった。このときは、「決定論の行方は?」という論題だったが、最後の公開講演と違って、高度な数式を連ねながら一般相対論や量子論に言及する専門性の高い内容だった。
 なお、当会議のプログラムや、発表内容の概要は、ウェブサイトで閲覧できる。今回の国際会議を紹介したホームアドレスは、
 http://www.spacetimesociety.org/conferences/2006/
前回については、
 http://www.spacetimesociety.org/conferences/2004/
である。

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2.時空とは


 時空の存在論についてという会議なのだが、さしあたり、今回の議題を以下に紹介しておこう。
 ・時空の自然および存在論的状況について。
 ・時の経過や生成が、相対論的枠組みにおいて、いかに理解されるべきであるか。
 ・時空の存在論のための量子論的重力の解釈について。
 ・時間の始まりと終わりについての近年の物理理論の解釈について。
 ・一般相対性理論における束縛されたハミルトニアン形式主義の哲学的局面について。
 ・分岐していく時空について。

 参考に、前回の議題も紹介しておく。
 ・三次元か四次元かの討論。それは実在性の問題を反映するのか?もしそうなら、相対性理論とそれを支える実験上の証拠は、世界の次元性の何たるかについて、明白な解答を提供するのか。
 ・生成、時間の流れ、変化、これらは、世界の次元性に対して本質的に関係しているのか。
 ・客観的な生成、時間の流れ、変化、これらは相対論と両立しうるのか。
 ・時間の経験と心理学からの実証可能な証拠について。
 ・古典的並びに量子論的宇宙論における変化について。
 ・量子論的宇宙論における時間の消失について。
 ・同時性の規約形式(Conventionality)と次元性の問題。
 ・時空論vs相対性理論のネオ・ローレンツ解釈。

 専門的な言い回しが並んで分かりづらいかもしれない。どうしてこういった議論が熱く語られているのかについて、簡単に解説しておこう。
 四次元時空というと、SFなどで登場する超現実的な浮世離れした世界をイメージしてしまう人も多いのだが、三次元の空間と一次元の時間をひとまとめにしただけのことで、そのいずれについても、我々の生活世界においてこの上なく馴染まれているものである。それでは、空間と時間をひとまとめにするとはどういうことかというと、鉄道のダイヤグラムのように横軸を空間(駅の配置)、縦軸を時間にとって表現したグラフを思い描いてもらうといい。そこでは、点(列車)の運動が線として描かれる。時間をもう一つの空間次元のように扱って、空間と時間が交差する一つ次元の多い空間として表現された世界、それを時空という。鉄道のダイヤグラムの場合は空間は一次元で表現されていたから二次元時空である。現実の空間は三次元であるわけだから、時空は四次元ということになる。ただ、我々は三次元の空間より高い次元の空間を思い描くことはできないから、数学的操作に頼るか、空間次元を減らしたものを思い描いて類推するしかない。空間を二次元にして余った次元を時間に置き換えた三次元時空が、我々が全体像をイメージできる限界である。
 では何故、時間と空間をひとまとめにするのかというと、相対性理論が関係してくる。相対性理論の理論内容を数式ではなく、グラフで表現、すなわち時間と空間をひとまとめにしたものを用いて表すとたいへん分かりやすく、すっきりと説明がつくという事情がある。と言うより、時空を考えることを頑なに拒絶して相対性理論を理解しようとすると、わけがわからなくなってしまうという事情があると言った方がいいかもしれない。
 相対性理論に時空図を適用したのは数学者へルマン・ミンコフスキーで、この時空表現はミンコフスキー時空と呼ばれる。(図1)
(図1)
 数式表現からも従来の絶対時間は崩壊したことは明らかになっていたわけだが、ミンコフスキー時空は、それを明確にイメージさせた。それは、同時刻を表す線や面が、観測者がどの方角にどんな速さで向かっているかに応じて、その傾きを変えるというところに端的に表現される。鉄道のダイヤグラムと決定的に違うのはこの点だ。こちらでは同時刻を表す横軸はみな水平で傾きが変わることなどない。この空間軸が傾きを変えることに連動して、時間や空間の尺度も変動していく。もう一つのミンコフスキー時空の特徴は、光速を超えられないという相対性理論の帰結を、光円錐(Light Cone)という時空の壁として表現していることである。ある場所のある時点(時空の原点)を基準にして、時空領域には、光速という速度限界を超えないと行けない、つまり情報伝達も含めて原理的に到達できない領域があることを明らかにした。その境界面が光円錐であり、そしてこの壁によって時空は、未来の時間的領域過去の時間的領域と、座標系しだいで未来にも現在にも過去にもなりうる空間的領域に三分されることになる。従来は現在を境に未来と過去の二つしかないと思われていたのが、その中間にいずれにもなりえる曖昧な領域があることが発見されたわけである。
 アインシュタインは後にこの時空の考えをベースに一般相対性理論を構築した。それは、重力の理論を時空の幾何学としてまとめあげたものだった。つまり、今まで、物体とは独立した超然たるいれものとしての空間、運動過程の絶対的背景として流れる時間という抽象形式は、具体的に存在する質量・エネルギーに依存してその幾何学的形状が変わるものと認識されることとなったのである。
 そのような事情を背景に、では、この時空は実在するものなのか、単なる思考の道具として発明されたものにすぎないのか、といった議論が起きた。つまりこの自然界は、本質的に四次元時空として実在しているのか、それとも、自然界はやはり運動する三次元空間として実在しており、我々は、それに四次元時空のアイデアを適用して便宜を図っているにすぎないのかといった議論である。これが時空の存在論的問題であり、当国際会議の中心テーマなのである。

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3.時空の存在論上の立場について


 時空の存在論をめぐってその立場は、次の三つに分類できるだろう。
 (1)現在のみが実在している。過去はもうないし、未来はまだない。
 (2)過去から現在までが実在しており、未来は人間の予想に基く仮想のものでしかない。
 (3)過去から未来まで、時空は全て実在する。

 上記の立場が、実際にどのような用語で表現されているかについて説明しておこう。
 (1)の立場は、現在主義(presentism)とか、三次元主義(three dimensionalism)とか呼ばれている。
 (2)の立場は、成長ブロック宇宙論(growing block theory)と呼ばれ、(1)と(3)の折衷である。世界の四次元性を過去についてのみ認める立場である。
 (3)の立場は、永遠主義(eternalism)とか、四次元主義(four dimensionalism)とか、ブロック宇宙論(block universe theory)とかと呼ばれている。
 (3)の立場を否定、もしくは実在性論議そのものを無意味とする根拠として、四次元時空的議論は(さらには、そもそも物理学理論は)、便宜上の規約に基いてなされているにすぎないとする主張がある。その観点から、この立場は、規約主義(Conventionalism)と呼ばれており、ポアンカレ(H. Poincaré)が主唱したのが始まりとされる。認識論上の議論とも絡み四次元主義との論戦が盛んなようである。
 さらに、現在主義(presentism)対、永遠主義(eternalism)が、持続主義?(endurantism)対、存続主義?(perdurantism)として議論されることもある。(どういう訳語を与えたらいいか分からない。
(※1))前者は、物体は持続しつつ運動・変化していくものとして捉えるのだが、後者は、物体は不変の四次元的実体として存続しているものとして捉えるわけで、このような時間経過をまたぐ物体の存在のあり方に焦点を当てた議論において使われている。また、この対立を、「万物は流転する」のヘラクレイトス(Heraclitus)の立場 対、「真の存在は不生不滅の全体」とするパルメニデス(Parmenides)の立場として表現されることもある。
 四次元時空においては、運動する点は、時空内に過去から未来にわたってよこたわっている線として表現される。これを「世界線」と呼ぶ。運動する円形の二次元生物は、三次元時空内においては、チューブ状の存在として表現される。その延長で考えて、運動する三次元物体は、四次元時空内によこたわる四次元的超立体となるわけなのだが、我々はそれを直接表現できる言葉もイメージも持ち合わせていない。四次元主義では、我々は、運動する三次元物体として存在しているのではなく、それ自体は動くことのない、超チューブ状の超立体として存在しているものと考える。かつて数学者ヘルマン・ワイル(Hermann Weyl)は、このチューブ状の形を指して、我々は、時空内に「四次元ミミズ(worm)」として存在していると表現した。それで、この用語も時空存在論の議論でよく出てくる。注意しなくてはならないのは、この「ミミズ」はそれ自体としては、まったく動かないということである。ミミズの過去側の先端は、その者の発生であり、ミミズの未来側の末端は、その者の消滅である。
--------------------------------------(2007/10/29 加筆)--------------------
(※1)Theodore Sider の FOUR-DIMENSIONALISM: An Ontology of Persistence and Time
の和訳が、
 『四次元主義の哲学』―持続と時間の存在論 (現代哲学への招待 Great Works)
セオドア・サイダー (著), 中山康雄(監訳) 小山 虎+齋藤暢人+鈴木生郎 (翻訳)
春秋社 (2007/10)
という形で、出版された。
 それによれば、endurance → 「耐続」 perdurance → 「延続」という造語が充てられている。
(両者を統括する概念persistence は、「持続」と訳される。)
つまり、(三次元主義側)「耐続主義」 対 (四次元主義側)「延続主義」ということになる。

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4.時の流れの問題等


 ただ、物理学理論の整合性だけに注目している限り、(3)の四次元主義、ブロック宇宙論が一番自然で、論理的にしっくり行く。このことは物理学者は皆自覚しているみたいだ。ただ、我々の心象世界における時間は、決してこのような空間的なものではないわけで、過去・現在・未来という時間様相、経過していく時の流れ、持続という時間意識、物事の生成・変化・消滅という心象で世界は捉えられている。だが、物理理論からは、このような心象がなぜ生じるのかが導き出せていない。そもそも、物理理論に「今」という概念は存在しないのだ。「ある時点」という概念があるのみである。
 それで、まあ、四次元主義はどこかおかしいのではないかといった前掲のような議論がまきおこるわけなのだが、これに対し、四次元主義側の主要な反論は、では、現在主義者の言う現在、あるいは成長ブロック宇宙論者の言う最前線の現在とは、どの現在を言うのか、ということになる。つまり相対性理論では、同時刻は相対的で、絶対的な現在というのはないのだ。
 また、一般相対性理論が扱っている時空幾何学とは何なのだ、という議論もよくなされるみたいだ。これを専門的に議論すると、テンソルとかラグラジアンやハミルトニアンのような微分演算子とかを駆使していくことになるのだが、当会議では、そういった数式が頻繁にスクリーンに表示されていた。
 数学的な問題としては、時空の連続性についての問題もある。これを取り上げている論者も幾人かいた。
 現代物理学の基礎は相対性理論に尽きるものではなく、量子力学というさらに革命的な理論が支柱をなしている。一般相対性理論の重力理論と量子論との統一は、長年の物理学の課題である。量子論は、それ自体、また「観測問題」という認識論的、存在論的難題を抱えている。時空の存在論をめぐる議論はそういった、物理学の先端分野での哲学的諸問題とも関わってきていて、当会議の論題として取り上げられている。
 また、一般相対性理論と量子論は宇宙論とも深く関わっており、宇宙の構造をめぐる議論も当会議では取り上げられている。その中には分岐宇宙論も取り上げられる。これは多世界論とも呼ばれる観測問題に対する考え方で、重ね合わせの不確定な量子状態が観測によって波動関数が崩壊していずれか確定した状態に決まるという解釈が主観的観念論に導くことを嫌って、全ての可能性は全て別々の宇宙として無数に枝分かれしながら存在しているとする考え方である。一部の物理学者は熱烈に支持しているようだが、あまりにも途方もなく、原理的に実証もできない形而上学なので、冷ややかに静観する物理学者も多いみたいだ。

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5.決定論の問題


 当会議を通じて、とりわけ、耳に残った言葉は、「determinism(決定論)」という言葉だった。多くの論者が、大なり小なりこの問題を扱っていた。「determinism(決定論)か、indeterminism(非決定論)か」は当会議の第二のメインテーマだとも言えるかもしれない。
 何故、ここで決定論が問題になるのか、と言うと、四次元時空が過去から未来にわたって実在するものだとすると、未来は決まってしまっているのかということが問われてくるからである。我々は、四次元ミミズとして確定してしまっている存在なのかと。
 素直に四次元時空を捉えるなら、そういうことになる。それはどうも納得がいかない、なんとか決定論を回避できないものか、それが反四次元主義者の大きなモチベーションになっていることは明らかである。当国際会議でも、determinismは、horribleだ、violenceだ、といった発言も耳にした。
 物理学の整合性は確保しつつも、決定論は回避したい。それで四次元時空においてリアルなのは数学的構造のみであるといった議論もあるみたいだ。規約主義(Conventionalism)的アプローチを試みる人たちは、様々な論理学的展開を試みているようである。先ほど紹介した、分岐宇宙論も決定論回避の一つだと解釈することもできる。
 あと、オルタナティヴ物理学を求める人たちもいる。これは、相対性理論そのものを見直して、変えてしまうべきだとする立場だが、統一的な理論があるわけではない。素人でもすぐにその間違いが分かるずさんなものから、手の込んだ玄人っぽいものまで、色々あって、これは日本に限らず世界的な傾向のようだが、相対性理論が発表された当初から繰り返されてきている現象でもあるようだ。物理学者らによって、理論に対する誤解や無理解を指摘されてもなかなか治まらない。彼らは地球が宇宙の中心であるような天動説的世界観を採用してでも相対性理論を否定しようとしている。普通の物理学者は、理論は、諸現象や実験事実をすべて矛盾なく説明するのにどうあるべきかと考えるのだが、彼らのモチベーションは、自分が納得できる世界観を保持するためには物理理論はどうあるべきかで考えているようにさえ思えてしまう。議論はいつまでたっても噛み合わない。
 一方、原則的な四次元主義者は、決定論は回避できないと考えている。最初に紹介した主催者の一人であるペトコフ氏も、四次元主義の立場であり、同時刻の相対性や、時間の遅れ、長さの収縮といった相対論的効果、双子のパラドックスなどを論拠にして議論を展開している。
(ペトコフ氏)
 発表をするV.ペトコフ氏

 ただ、ここに集まってきている論者は、殆どが物理学者か、数学者か、そういう分野をターゲットに据えた科学哲学者である。決定論を論じるなら、もっと多角的に踏み込んだ哲学的議論もありそうなのだが、そこは、不用意に自分の専門を踏み越えてしまわないよう慎重に問題を留保している感じがする。

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6.私の立場について


 私は、物理学者でも数学者でもないし、専門的な哲学者でもない。一介のビジネスマンである。ここに集まって積極的に議論をしている人たちは、殆どその道の大学教授や大学院生である。なんとも場違いな所に来てしまっていると言えばそう言える。本来ならば、科学哲学等を研究している大学の教授か研究生が参加してこそ似つかわしいだろう。私は、単なる野次馬的見物人でしかない。おまけに英語だ。本来なら、本稿においてもっと詳細に各論者の内容を具体的に紹介してしかるべきかもしれないが、それは私の能力を越えた課題なので、ここでは議論の一般的な解説に留める。詳しくはウェブサイトの要約を参照してもらいたい。
 では、何故、私ごときものがこの会議に参加したのか、その経緯を簡単に説明しておこう。  この会議の存在は、ウェブを幾つかのキーワードで検索していたときに、偶然見つけて知った。私は、以前から時間論には興味を持っていて、そのためには相対性理論の知識は必要だと思って勉強していたのだが、その時、やはりミンコフスキー時空の実在性についての疑問にぶつかった。さらには決定論の問題も重大になると思った。私は専門的な物理学者や科学哲学者と接触する機会はなかったので、相対性理論の教科書等から得られる知識だけで独りで考えていた。ただ、私の抱いた問題意識にリアクションをしてくれる人も周りにいなかったのでそのまま放っておいた。
 しかし、インターネットが進んで、自分の問題意識に呼応してくれそうな人を探せるかもしれないと思い、自分の論文をウェブに載せるなどしてみた。そして、色々なサイトを検索してみた。単に日本語だけでは物足らなかったので英語でも検索してみた。すると、英語圏では、かなりホットな議論になっていることを知って驚いた。そしてこの会議のサイトにもたどりつたわけである。そこで要約論文を募集していたので、ものは試しで応募してみた。それが季報95号で紹介したものである。それは、当会議の委員会では不採用になった。ペトコフ氏が私に告げたところによれば、出版や研究会等の発表で何の実績もない者の要約論文だけでは委員会は承諾できないということらしい。実際、発表者は、そうそうたる大学教授や院生ばかりだ。正直、私は発表のことまで考えてなかった。真剣にこの人たちとコンタクトを取るためには、自分の考えをぶつけなくてはと思って応募した。発表なんて、仮にそれがかろうじて出来たとしても、その後の質疑応答のことを考えたら眩暈がする。ペトコフ氏は、一応、私の要約論文に留意はしてくれているみたいだし、ともあれ、はるかカナダから、会議への参加を誘ってくれたこと自体、私にとっては大きな成果だった。
 当会議に参加している人たちの議論を通じて、私の考えていたことは、的外れではなかったと自覚できた。EPR問題に言及する人もいて、やはり注目するところは同じなのだなあと思った。
 私の立場は、「四次元主義」ということになると思う。そして、「決定論者」である。ペトコフ氏の考えにかなり近いと思っている。同時刻の相対性に強く着目している点も共通している。
 ただ、私の議論の展開の仕方は、四次元時空を、「自己」と「他者」との緊張関係において考察するというやり方なのだ。今回の発表者の議論において、同時に存在している二つ以上の光円錐を使って四次元時空の実在性について議論する人はいなかったように思う。光円錐の原点は、ある「今のここ」を表している。唯一つの「今のここ」のみに着目して議論するということは、言い換えれば、今の自己のみに着目して議論していることなのだ。
 だが、実在性の議論は、他者の存在を認めるか否かに起点をおかなくてはならないと私は考えている。他者とは、すなわち別の「今のここ」のことであり、それは、別の場所に原点を持つ別の光円錐なのである。
 今の私に見えている他者は、私の過去の光円錐面上に位置している過去の他者である。(私にとって)「今」存在している他者は、今は原理的に見えない。この見えない他者の実在性を認めるのか否か、そここそが重要なのだ。認識できないものの実在性は認められないとするなら、実在するのは過去の他者である。だが、そうするとその他者にとって、今の私は未来に位置するから今の私は実在しないことになってしまう。だから、独我論を避けるためには今の他者の実在性を認めるしかない。
 だが、今とは何か?私の今と他者の今とは同一ではない。同時刻は相対的だからだ。私の四次元時空実在性論はこういう形で展開する。四次元時空において「他者」を慮ること、これこそが議論を明快にする。私としてはこの点を強調したい。

 会議が終わって、帰る前にナイアガラの滝を見てきた。もちろん、緊張をほぐすためのバカンスではあるが、大河の流れを見ながら、四次元時空を考えてみたいという気持ちもあった。それから、私は、五木寛之の「大河の一滴」という言葉がとっても気に入っていて、それなのに、まだ大河らしい川を見たことがないなという気持ちもあった。
 ナイアガラの川沿いには遊戯場などが立ち並ぶ賑やかな街が続く。ふと、恐竜のポスターに4Dと書いてあるのが目に留まった。一応、その意味を店の前に立っている青年に聞いてみた。予想していた通り、彼は三次元的立体の恐竜の模型が動くのだと答えた。動く三次元を四次元と表現すること、これは、気がついたら、すでに日常言語の世界に浸透している。


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