3.時空の存在論上の立場について
時空の存在論をめぐってその立場は、次の三つに分類できるだろう。
(1)現在のみが実在している。過去はもうないし、未来はまだない。
(2)過去から現在までが実在しており、未来は人間の予想に基く仮想のものでしかない。
(3)過去から未来まで、時空は全て実在する。
上記の立場が、実際にどのような用語で表現されているかについて説明しておこう。
(1)の立場は、現在主義(presentism)とか、三次元主義(three dimensionalism)とか呼ばれている。
(2)の立場は、成長ブロック宇宙論(growing block theory)と呼ばれ、(1)と(3)の折衷である。世界の四次元性を過去についてのみ認める立場である。
(3)の立場は、永遠主義(eternalism)とか、四次元主義(four dimensionalism)とか、ブロック宇宙論(block universe theory)とかと呼ばれている。
(3)の立場を否定、もしくは実在性論議そのものを無意味とする根拠として、四次元時空的議論は(さらには、そもそも物理学理論は)、便宜上の規約に基いてなされているにすぎないとする主張がある。その観点から、この立場は、規約主義(Conventionalism)と呼ばれており、ポアンカレ(H. Poincaré)が主唱したのが始まりとされる。認識論上の議論とも絡み四次元主義との論戦が盛んなようである。
さらに、現在主義(presentism)対、永遠主義(eternalism)が、持続主義?(endurantism)対、存続主義?(perdurantism)として議論されることもある。(どういう訳語を与えたらいいか分からない。(※1))前者は、物体は持続しつつ運動・変化していくものとして捉えるのだが、後者は、物体は不変の四次元的実体として存続しているものとして捉えるわけで、このような時間経過をまたぐ物体の存在のあり方に焦点を当てた議論において使われている。また、この対立を、「万物は流転する」のヘラクレイトス(Heraclitus)の立場 対、「真の存在は不生不滅の全体」とするパルメニデス(Parmenides)の立場として表現されることもある。
四次元時空においては、運動する点は、時空内に過去から未来にわたってよこたわっている線として表現される。これを「世界線」と呼ぶ。運動する円形の二次元生物は、三次元時空内においては、チューブ状の存在として表現される。その延長で考えて、運動する三次元物体は、四次元時空内によこたわる四次元的超立体となるわけなのだが、我々はそれを直接表現できる言葉もイメージも持ち合わせていない。四次元主義では、我々は、運動する三次元物体として存在しているのではなく、それ自体は動くことのない、超チューブ状の超立体として存在しているものと考える。かつて数学者ヘルマン・ワイル(Hermann Weyl)は、このチューブ状の形を指して、我々は、時空内に「四次元ミミズ(worm)」として存在していると表現した。それで、この用語も時空存在論の議論でよく出てくる。注意しなくてはならないのは、この「ミミズ」はそれ自体としては、まったく動かないということである。ミミズの過去側の先端は、その者の発生であり、ミミズの未来側の末端は、その者の消滅である。
--------------------------------------(2007/10/29 加筆)--------------------
(※1)Theodore Sider の FOUR-DIMENSIONALISM: An Ontology of Persistence and Time
の和訳が、
『四次元主義の哲学』―持続と時間の存在論 (現代哲学への招待 Great Works)
セオドア・サイダー (著), 中山康雄(監訳) 小山 虎+齋藤暢人+鈴木生郎 (翻訳)
春秋社 (2007/10)
という形で、出版された。
それによれば、endurance → 「耐続」 perdurance → 「延続」という造語が充てられている。
(両者を統括する概念persistence は、「持続」と訳される。)
つまり、(三次元主義側)「耐続主義」 対 (四次元主義側)「延続主義」ということになる。
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4.時の流れの問題等
ただ、物理学理論の整合性だけに注目している限り、(3)の四次元主義、ブロック宇宙論が一番自然で、論理的にしっくり行く。このことは物理学者は皆自覚しているみたいだ。ただ、我々の心象世界における時間は、決してこのような空間的なものではないわけで、過去・現在・未来という時間様相、経過していく時の流れ、持続という時間意識、物事の生成・変化・消滅という心象で世界は捉えられている。だが、物理理論からは、このような心象がなぜ生じるのかが導き出せていない。そもそも、物理理論に「今」という概念は存在しないのだ。「ある時点」という概念があるのみである。
それで、まあ、四次元主義はどこかおかしいのではないかといった前掲のような議論がまきおこるわけなのだが、これに対し、四次元主義側の主要な反論は、では、現在主義者の言う現在、あるいは成長ブロック宇宙論者の言う最前線の現在とは、どの現在を言うのか、ということになる。つまり相対性理論では、同時刻は相対的で、絶対的な現在というのはないのだ。
また、一般相対性理論が扱っている時空幾何学とは何なのだ、という議論もよくなされるみたいだ。これを専門的に議論すると、テンソルとかラグラジアンやハミルトニアンのような微分演算子とかを駆使していくことになるのだが、当会議では、そういった数式が頻繁にスクリーンに表示されていた。
数学的な問題としては、時空の連続性についての問題もある。これを取り上げている論者も幾人かいた。
現代物理学の基礎は相対性理論に尽きるものではなく、量子力学というさらに革命的な理論が支柱をなしている。一般相対性理論の重力理論と量子論との統一は、長年の物理学の課題である。量子論は、それ自体、また「観測問題」という認識論的、存在論的難題を抱えている。時空の存在論をめぐる議論はそういった、物理学の先端分野での哲学的諸問題とも関わってきていて、当会議の論題として取り上げられている。
また、一般相対性理論と量子論は宇宙論とも深く関わっており、宇宙の構造をめぐる議論も当会議では取り上げられている。その中には分岐宇宙論も取り上げられる。これは多世界論とも呼ばれる観測問題に対する考え方で、重ね合わせの不確定な量子状態が観測によって波動関数が崩壊していずれか確定した状態に決まるという解釈が主観的観念論に導くことを嫌って、全ての可能性は全て別々の宇宙として無数に枝分かれしながら存在しているとする考え方である。一部の物理学者は熱烈に支持しているようだが、あまりにも途方もなく、原理的に実証もできない形而上学なので、冷ややかに静観する物理学者も多いみたいだ。
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5.決定論の問題
当会議を通じて、とりわけ、耳に残った言葉は、「determinism(決定論)」という言葉だった。多くの論者が、大なり小なりこの問題を扱っていた。「determinism(決定論)か、indeterminism(非決定論)か」は当会議の第二のメインテーマだとも言えるかもしれない。
何故、ここで決定論が問題になるのか、と言うと、四次元時空が過去から未来にわたって実在するものだとすると、未来は決まってしまっているのかということが問われてくるからである。我々は、四次元ミミズとして確定してしまっている存在なのかと。
素直に四次元時空を捉えるなら、そういうことになる。それはどうも納得がいかない、なんとか決定論を回避できないものか、それが反四次元主義者の大きなモチベーションになっていることは明らかである。当国際会議でも、determinismは、horribleだ、violenceだ、といった発言も耳にした。
物理学の整合性は確保しつつも、決定論は回避したい。それで四次元時空においてリアルなのは数学的構造のみであるといった議論もあるみたいだ。規約主義(Conventionalism)的アプローチを試みる人たちは、様々な論理学的展開を試みているようである。先ほど紹介した、分岐宇宙論も決定論回避の一つだと解釈することもできる。
あと、オルタナティヴ物理学を求める人たちもいる。これは、相対性理論そのものを見直して、変えてしまうべきだとする立場だが、統一的な理論があるわけではない。素人でもすぐにその間違いが分かるずさんなものから、手の込んだ玄人っぽいものまで、色々あって、これは日本に限らず世界的な傾向のようだが、相対性理論が発表された当初から繰り返されてきている現象でもあるようだ。物理学者らによって、理論に対する誤解や無理解を指摘されてもなかなか治まらない。彼らは地球が宇宙の中心であるような天動説的世界観を採用してでも相対性理論を否定しようとしている。普通の物理学者は、理論は、諸現象や実験事実をすべて矛盾なく説明するのにどうあるべきかと考えるのだが、彼らのモチベーションは、自分が納得できる世界観を保持するためには物理理論はどうあるべきかで考えているようにさえ思えてしまう。議論はいつまでたっても噛み合わない。
一方、原則的な四次元主義者は、決定論は回避できないと考えている。最初に紹介した主催者の一人であるペトコフ氏も、四次元主義の立場であり、同時刻の相対性や、時間の遅れ、長さの収縮といった相対論的効果、双子のパラドックスなどを論拠にして議論を展開している。
発表をするV.ペトコフ氏
ただ、ここに集まってきている論者は、殆どが物理学者か、数学者か、そういう分野をターゲットに据えた科学哲学者である。決定論を論じるなら、もっと多角的に踏み込んだ哲学的議論もありそうなのだが、そこは、不用意に自分の専門を踏み越えてしまわないよう慎重に問題を留保している感じがする。
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6.私の立場について
私は、物理学者でも数学者でもないし、専門的な哲学者でもない。一介のビジネスマンである。ここに集まって積極的に議論をしている人たちは、殆どその道の大学教授や大学院生である。なんとも場違いな所に来てしまっていると言えばそう言える。本来ならば、科学哲学等を研究している大学の教授か研究生が参加してこそ似つかわしいだろう。私は、単なる野次馬的見物人でしかない。おまけに英語だ。本来なら、本稿においてもっと詳細に各論者の内容を具体的に紹介してしかるべきかもしれないが、それは私の能力を越えた課題なので、ここでは議論の一般的な解説に留める。詳しくはウェブサイトの要約を参照してもらいたい。
では、何故、私ごときものがこの会議に参加したのか、その経緯を簡単に説明しておこう。
この会議の存在は、ウェブを幾つかのキーワードで検索していたときに、偶然見つけて知った。私は、以前から時間論には興味を持っていて、そのためには相対性理論の知識は必要だと思って勉強していたのだが、その時、やはりミンコフスキー時空の実在性についての疑問にぶつかった。さらには決定論の問題も重大になると思った。私は専門的な物理学者や科学哲学者と接触する機会はなかったので、相対性理論の教科書等から得られる知識だけで独りで考えていた。ただ、私の抱いた問題意識にリアクションをしてくれる人も周りにいなかったのでそのまま放っておいた。
しかし、インターネットが進んで、自分の問題意識に呼応してくれそうな人を探せるかもしれないと思い、自分の論文をウェブに載せるなどしてみた。そして、色々なサイトを検索してみた。単に日本語だけでは物足らなかったので英語でも検索してみた。すると、英語圏では、かなりホットな議論になっていることを知って驚いた。そしてこの会議のサイトにもたどりつたわけである。そこで要約論文を募集していたので、ものは試しで応募してみた。それが季報95号で紹介したものである。それは、当会議の委員会では不採用になった。ペトコフ氏が私に告げたところによれば、出版や研究会等の発表で何の実績もない者の要約論文だけでは委員会は承諾できないということらしい。実際、発表者は、そうそうたる大学教授や院生ばかりだ。正直、私は発表のことまで考えてなかった。真剣にこの人たちとコンタクトを取るためには、自分の考えをぶつけなくてはと思って応募した。発表なんて、仮にそれがかろうじて出来たとしても、その後の質疑応答のことを考えたら眩暈がする。ペトコフ氏は、一応、私の要約論文に留意はしてくれているみたいだし、ともあれ、はるかカナダから、会議への参加を誘ってくれたこと自体、私にとっては大きな成果だった。
当会議に参加している人たちの議論を通じて、私の考えていたことは、的外れではなかったと自覚できた。EPR問題に言及する人もいて、やはり注目するところは同じなのだなあと思った。
私の立場は、「四次元主義」ということになると思う。そして、「決定論者」である。ペトコフ氏の考えにかなり近いと思っている。同時刻の相対性に強く着目している点も共通している。
ただ、私の議論の展開の仕方は、四次元時空を、「自己」と「他者」との緊張関係において考察するというやり方なのだ。今回の発表者の議論において、同時に存在している二つ以上の光円錐を使って四次元時空の実在性について議論する人はいなかったように思う。光円錐の原点は、ある「今のここ」を表している。唯一つの「今のここ」のみに着目して議論するということは、言い換えれば、今の自己のみに着目して議論していることなのだ。
だが、実在性の議論は、他者の存在を認めるか否かに起点をおかなくてはならないと私は考えている。他者とは、すなわち別の「今のここ」のことであり、それは、別の場所に原点を持つ別の光円錐なのである。
今の私に見えている他者は、私の過去の光円錐面上に位置している過去の他者である。(私にとって)「今」存在している他者は、今は原理的に見えない。この見えない他者の実在性を認めるのか否か、そここそが重要なのだ。認識できないものの実在性は認められないとするなら、実在するのは過去の他者である。だが、そうするとその他者にとって、今の私は未来に位置するから今の私は実在しないことになってしまう。だから、独我論を避けるためには今の他者の実在性を認めるしかない。
だが、今とは何か?私の今と他者の今とは同一ではない。同時刻は相対的だからだ。私の四次元時空実在性論はこういう形で展開する。四次元時空において「他者」を慮ること、これこそが議論を明快にする。私としてはこの点を強調したい。
会議が終わって、帰る前にナイアガラの滝を見てきた。もちろん、緊張をほぐすためのバカンスではあるが、大河の流れを見ながら、四次元時空を考えてみたいという気持ちもあった。それから、私は、五木寛之の「大河の一滴」という言葉がとっても気に入っていて、それなのに、まだ大河らしい川を見たことがないなという気持ちもあった。
ナイアガラの川沿いには遊戯場などが立ち並ぶ賑やかな街が続く。ふと、恐竜のポスターに4Dと書いてあるのが目に留まった。一応、その意味を店の前に立っている青年に聞いてみた。予想していた通り、彼は三次元的立体の恐竜の模型が動くのだと答えた。動く三次元を四次元と表現すること、これは、気がついたら、すでに日常言語の世界に浸透している。
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