V・ペトコフ「相対性理論と世界の次元性」"Relativity and the Dimensionality of the World"(Vesselin Petkov,2004)(http://www.spacetimesociety.org/VPetkov.html)によると、同時刻の相対性によるのみの考察では、相対化されたバージョンの現在主義を許してしまうかもしれず、双子のパラドックスの分析に至って、時空の実在性を完全に示すことができるという。私は、「相対性理論と調和する唯一の考え方は、四次元主義である」とする彼の主張そのものについては、充分に同意するのだが、このことは、同時刻の相対性だけに基づいて示すことが可能だと私は考える。
前掲の論文では、二人の観測者の座標系の原点は、共通の位置にあるのだが、私は、一方の原点を他方の原点から引き離して考えたいと思う。例えば、観測者Bは、Aから離れていて、Bは、Aへ(またはAから)移動中(あるいはAはBへ(またはBから)移動中)だとする。
このような状況において、我々は時空の実在性をより簡潔かつ鮮明に考察することができる。
我々は、以下に掲げる前提から出発することができる。
(1) 現在のAは実在する。(Aは、私とみなしえる)
(2) Aから離れている現在のBは、実在する。(Bは彼や彼女とみなしえる)
(3) Bの速度はAの速度と異なっている。
(4) 実在する対象と同時刻に存在しているものは、どれも実在している。
(5) 同時刻は相対的である。(これが一番重要なポイント)
(1) から (4) までなら、現在主義者であっても、受け入れ可能であろう。そして、(5) は、特殊相対性理論から導かれた。
よって、我々の推論は以下のようになる;
(1) 同時刻の相対性によれば、もし、実在するBがAに近づいているならば、Bにとって実在するAは、当初実在するAと仮定されていた点よりも、世界線A上において未来の点ということになる。
(2) 仮定(4)により、未来の点は、実在していると判断されねばならない。
あるいは、
(1') 同時刻の相対性によれば、もし、実在するBがAから遠ざかっているならば、Bにとって実在するAは、当初実在するAと仮定されていた点よりも、世界線A上において過去の点ということになる。
(2') 仮定(4)により、過去の点は、実在していると判断されねばならない。
かくして、時空上のすべての点は、実在すると判断されねばならない。もし、現在の私が、離れた場所にいる他者は実在すると仮定するならば、私は、私の未来や過去のあらゆる事象がみな実在するということを受け入れなくてはならない。
そして、この推論において、我々は「実在している」という言葉を「決定されている」とかなどの他の言葉に置き換えることも可能である。我々は客観的には、いかなる属性においても過去と未来を区別できないのだ。もし過去の事象が決定されていると仮定すれば、未来の事象も決定されている。あるいは、もし未来の事象が決定されていないと仮定すれば、過去の事象も決定されていない。このような過去の事象は決定されていないとする考え方は、H・エヴェレットの多世界解釈を除いて受け入れがたいであろう。もし、実在する事象は、過去の光円錐面上にのみあると仮定すれば、ある種の現在主義を維持できるかもしれないが、我々(?)はある種の独我論に立たなくてはならなくなる。他方、多世界解釈はと言えば、これはある種のマルチ独我論を意味しないかと私は考える。何故なら世界の歴史についての具体的な見解を、我々は共有できなくなってしまうからである。それで、私と相対性理論にとって、唯一容認可能な考え方は、四次元時空内の全ての事象が実在し、かつ決定されているというものである。
そうは言っても、少なくとも我々の意識にとって、過去、現在、未来は互いに異なるものであり、時間は流れ行くものであるということは、それはそれで明らかな事実である。確かに客観的に考える限りにおいては、時間は流れず、(H・ワイルの言ったように)全ての事象は、ただあるのみである。しかし、世界には、四次元世界を変化する三次元世界(流れる時間)という表象として把握する客体が存在している。その客体は、意識(もしくは主体)と呼ばれている。
何故、意識は、四次元世界を変化する三次元世界として把握するのだろうか。これは、実に難しい問題だ。私はまず、速度には二つのタイプがあることを自覚することから考察を始めたらどうかと考えている。第一のタイプは、物理学で定義される純粋に客観的な速度である。それは、相対性理論の文脈では、光速に対する比で定義されるべきものである。このような速度は、感覚主体のいかなる状態にも決して影響されない。我々は通常、「速度」をこの意味で使っている。しかし、我々は、これとは別のタイプの速度があることに気づかねばならない。その第二のタイプは、時間を感覚する主体のスキャニング速度である。(H・ワイルの四次元虫という表現に従えば、虫の「這う」速度ということになるか。)時間感覚主体は、四次元時空を自らの世界線の始点から終点までスキャンする一種のスキャナである。始点に向かった方向は、意識によって「過去」と呼ばれる。そして、終点に向かった方向は、「未来」と呼ばれる。第二のタイプの速度の大きさは、意識が瞬間として感じる刹那の長さで定義されるべきであろう。この時間間隔において、意識は時間の経過を感じる取ることができるが、過ぎ去ることを待つという感覚は持たない。もしこの長さが短ければ、意識は時間がゆっくりと流れるものとして感じ、もしこの長さが長ければ、意識は時間が速く流れるものとして感じる。その長さも、客観的な時間の長さの一種ではあるが、意識にはゆらぎがあるから、物理現象のように厳密には定義できない。しかしながら、我々の刹那の長さは数ミリ秒のスケールでも数時間のスケールでもないことは明白である。より小さな動物とより大きな動物とでは、刹那のスケールは違っていると言われている。さらに、とてつもなく高速で飛行する宇宙旅行者やブラックホールに落ち込んで行く宇宙飛行士について言及すれば、刹那のスケールは、顕著に違っているのである。
J・M・E・マクタガートの議論では、主観的(流れる)時間は、「A系列」と呼ばれ、客観的(物理的)時間は「B系列」と呼ばれる。彼や他の多くの者は、「B系列」から「A系列」を導出はできず、従って、「A系列」こそが本質的であると主張する。(さらに加えて、彼は、「A系列」はそれ自体で矛盾を抱えていて、よって時間は存在しないとまで証明した。) しかし私は、相対性理論と両立するよう、「A系列」から「B系列」を導く方法を何か見つけなくてはならないと思っている。四次元主義と、時間をスキャンする主体という観点は、それをもたらすであろう。
しかしながら、少なからぬ人が四次元主義のような考えを拒むであろうことは分かっている。何故なら、それは我々の自由意志を否定してしまうかもしれないからだ。このたいへん難しい問題に関して言えば、この小論で何かが述べられるようなものではないのだが、少なくとも、私は自由の価値を否定しようとする意図はない。しかし、我々は自由概念について何がしかの変更を模索せねばなるまいとは考えている。
(2005年12月)
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