(2018/02:発行(3月)) 「季報 唯物論研究」第142号 にて掲載 (個別論文)

「自我と時空」

(Ego and Spacetime)

          村山 章 (Murayama, Akira)       2018年1月 執筆
(概要)
本稿では、時空の存在論上の立場において、四次元主義(ブロック宇宙論)に立つことを踏まえた上で、自我論を構成する一つのフレームワークを提起する。基底自我(B自我)、拡張自我(E自我)、内省自我(R自我)という三つの概念を置き、「自我」と「非自我」という二元的対立にとらわれない、自然主義的自我論の構成を試みる。
(キーワード)
四次元主義、ブロック宇宙論、基底自我(B自我)、拡張自我(E自我)、内省自我(R自我)


序.

 中学生の時、私は二年続きで祖父と母と死別した。仏式の葬儀が行われ、読経を聞く。さっぱり意味不明な経文に皆が神妙に聞き入っているその時間がなんとも気持ちが悪くて、後で般若心経の入門書などを買って読んでみたりした。振り返れば、哲学的なテーマの本を読む最初の体験だったかもしれない。そこでブラフマン(梵)とアートマン(我)の一如とか、「無我」の思想とかに出会ったのだが、正直、理解できなかった。むしろ、自明と判断される自我の存在に起点を置いて展開されていく近代西洋哲学の方が論理明晰で馴染みやすく、魅かれていった。だが、このとき抱いた「無我とは何か」という問題意識は、まるで宇宙の背景輻射のように静かに私の中に存在し続けていたような気がする。
 近代西洋哲学の大金字塔であるカントの『純粋理性批判』は、魅力的だが難渋である。一方でカントはニュートン力学の影響を強く受けたと聞く。だが、もうそれは過去の理論だ。そのひそみに習いたいなら、むしろ相対論や量子論のような現代物理学を学んだ方が難解な文章と格闘するより近道ではないかなどと思ったりしたのは、私が相対論に興味を持つにいたった理由の一つに挙げられるかもしれない。
 相対論を学んで最初に、そして長きにわたって理解に苦しんだことは、異なる事象が同時であるか否かが基準座標系、つまり観測者の乗り物の速度次第で変わるという「同時性の相対性(relativity of simultaneity)」をどう解釈したものかということだった。だがこれは理論の根幹である。これをイメージとして分かりやすく提示したのがH・ミンコフスキー(Hermann Minkowski,1864-1909)の時空座標だった。当初、懐疑的な態度を示したA・アインシュタイン(Albert Einstein,1879-1955)も、このアイデアを一般相対性理論の構築において積極的に取り入れた。私はこの四次元時空という数理モデルが、理論を表現し運用していく上での便宜的な数学的道具にすぎないものなのか、実際にこの世界は、四次元的な存在の仕方をしているのかについて悩んだ。当初は前者の立場で考えていたのだが、よくよく考えていくうちに後者の考えに、つまり四次元時空は実在するものではないかという立場に傾いていった。その最大の根拠は、そう考えないと、この今の私が宇宙の中で唯一の特別な中心的存在であるという前提に立たざるをえなくなってしまうからである。過去と未来を分ける境界は「今・ここ」を基準にしてのみ一つに定まるのであり、「今」だけを基準にしては定まらない。「ここ」を度外視した普遍的「今」などない。もし、三次元空間こそが実在するという考えを採用したいなら、それは、「今」の三次元空間ではなく、「今」かつ「ここ」を原点とした三次元空間が実在すると考えないと、「同時性の相対性」とは折り合わない。「今・ここ」、それは「私(の意識)」とも言い換えられるのではないか、だとすれば、実在するのは「私」を原点とした三次元空間だけだという一種の独我論を採用せざるを得なくなる。 「独我論」は誘惑的だ。実際、反省してみれば、「この私」の感覚や思考や記憶などがまったく媒介されない「世界認識」など不可能であり、「独我」の誤謬を論理的に証明しきることは、(その証明をしたり理解したり納得したりするのも、つまるところ、この私であって)極めて難しい。だが、「独我論」はそれを主張し他者に同意を求めた途端に自己撞着に陥るわけで、ただひとりで思うのみの孤独な(←当然だが)立場であって、さびしがりやの私には到底、採用できるものではないのである。
 それで、四次元時空は実在するという立場を採用することにした。そこで問題になるのが、一つには、では何故我々の意識には運動する三次元世界という表象がもたらされるかということであり、さらには、決定論の問題、自由の問題が浮上する。この問題意識を展開したのが、拙著『四次元時空の哲学』(新泉社2007)だった。そこで議論が尽くせたとは思っていないが、私なりの思想的布石を置いたものにはなった。本来ならば、この問題にさらに詳細に取り組んでいくというのが、誠実な学者的姿勢なのだろうが、私は学者ではないし、問題意識はむしろ別方向に拡散していくことが抑えられない。それは、「今・ここ」、と「私(の意識)」との不可分性に気付いたところから、「自我とは何か」という問題意識に引き寄せられていったことだ。つまり、私にとって「自我論」への関心の発端はさしあたって時空論からきている。もっとも、振り返れば、私が哲学などに近づいたきっかけは、もともと自我問題からだったかもしれない。
 さらに、それと並行して、時代は「自我」についての了解をドラスティックに見直さなくてはならないような事態、例えば、人間の自我だけを考えていていいのかといった状況が急速に進行しつつあることに無関心ではいられない。「自我論」を学術的に誠実に取り組もうとしたら、入り口で挫折してしまうだろうことなど承知しているが、私なりにここで自我論を構成してみたいという欲求が抑えられない。ここでの論述は、とりあえず私なりの整理の試みに過ぎないし、似たようなあまたの発想の焼き直しに過ぎないかもしれないが、まずは提示してみたい。
 私は「自我」と「非自我」という二元的対立の枠組みから離れてみようと思った。自我を後述する「B自我」「E自我」「R自我」という三局面でとらえ、自我と非自我に連続性を持たせられる枠組みを考えてみた。そして、「無我」へのアプローチ。 さしあたって、問題意識の発端となった時空論に関する記述から始めよう。

1.現在主義と永久主義(ブロック宇宙論)

 実在するのは現在の運動している三次元空間で、四次元時空は人間が論理的に構築したものにすぎないといする立場は、「現在主義(presentism)」とか「三次元主義(three-dimensionalism)」と呼ばれ、それに対して四次元時空こそが真の実在だとする立場は「永久主義(eternalism)」とか「四次元主義(four-dimensionalism)」と呼ばれている。後者は、「ブロック宇宙(block universe)論」と呼ばれることもある。両者の中間で、過去は実在するが未来は実在していないとする立場は、「成長ブロック宇宙(growing block universe)論」と呼ばれる。現代形而上学の分野では、存在論的視点から「耐続主義(endurantism)」 か、「延続主義(perdurantism)」か、という用語で議論されることもある。三次元空間の物体を二次元空間の円のような平面図形に対応させると時空像は時間方向に伸びたチューブ状の形になる。それが蠕虫(ミミズ)に似ているので、ワーム(worm) (1)と呼ばれ、四次元主義者は「ワーム論者(worm theorists)」と呼ばれることもある。
 これらの用語は、私が相対論をめぐって考えていた1980年代始めのころは、全く聞いたことがなかった。というか、四次元時空の存在論的問題の議論を知らなかった。相対性理論をめぐっての哲学的議論は認識論的なテーマが多かった。ミンコフスキーは実在するのは四次元時空だと言い切ってはいたが、その意味するところを吟味するには時間がなさすぎた。発表の翌年には歿しているからだ。アインシュタインも四次元時空の実在を信じているような表現を残してはいるが、哲学的議論にあまり時間を投じてはいない。20世紀前半では、そもそも相対性理論が物理学の理論として正当なのかどうかの検証が重要で、最前線の優れた頭脳はそこに力を注いだ。さらに量子力学という相対論以上に革命的な理論の探求に追われた。加えて、大戦と革命が渦巻いた時代、思想家たちが四次元時空の実在性をめぐる議論よりも優先して考えなくてはならないことは山積していた。
 1966年、オランダの理論物理学者C・W・リーダイク(Cornelis Willem (Wim) Rietdijk ,1927-)並びに、1967年、アメリカの哲学者H・パトナム(Hilary Whitehall Putnam,1926-2016)(2)が、同時性の相対性に着目して、四次元宇宙の実在を支持する議論をそれぞれ独立に展開した。リーダイク・パトナム議論(Rietdijk-Putnam argument)と命名されている。のちにR・ペンローズ(Roger Penrose,1931-)はアンドロメダの宇宙人の現在と我々の現在との食い違いに言及した議論として解説する。(3) 私はこれらの議論を全く知ることなく、単に相対性理論の入門的教科書を読んで同じような結論に達していた。その時、同様なことは他の誰かが考えているだろうけれど自分は不勉強で知らないだけだと思っていた。複雑な方程式を解いたり高度な実験を重ねたりで到達した結論ならいざしらず、もっとも初歩的なテーゼである同時性の相対性から導かれる帰結であって誰もが思いつきそうなものだからだ。ただ、多くの哲学者が関心を持って議論が活発になるのは1990年代以降のようである。私はインターネットの普及によってそれらの議論を知るようになった。いずれにせよ、私の考えていたことに名前がつけられていたことは有難いと思った。
 永久(四次元)主義を支持する論者の共通の論拠になっている「同時性の相対性」、これは「光速不変の原理」から導かれるものであるが、今やこの原理はあらゆる瞬間で確証され続けている疑いようのない事実になっている。例えばGPSのように光と時計で距離を測る装置は、光速不変の原理が成立していなかったらおよそ使い物にならない。もし光速不変の原理を否定したらあまたの現代の科学技術の成功を説明不可能なものにしてしまう。だから、現在主義を支持する論者もこれは否定していない。
 現在主義を支持する立場からの書として、左金武『時間にとって十全なこの世界――現在主義の哲学とその可能性』(勁草書房2015)がある。本書は現代形而上学的考察に加えて特殊相対性理論への吟味も熱心に行っている。この書は、現在主義にとって絶対的同時性が欠かせないと説きつつ絶対的同時性を否定する相対論との両立性を主張していて、理解するのが難しい。相対論を無視したり曲解したりすることはすまいとする著者の学術的誠実さは素晴らしいのだが、それ故なのかもしれないが、論理展開が複雑で、結果的に永久主義者に自信を与える書となっている。現在、現在主義者たらんとするものは、かくも難渋な論理を駆使して形而上学の険しき道を進んでいかなくては現在主義者になれないことを示してくれたことは、永久主義者に対する大いなる貢献であろう。本書は、何故だかともかく有用なだけの物理理論が、形而上学上の立場である現在主義を侵食することはないことを主張したいようだ。もっと詳細な論評を展開したいところだが、本稿の趣旨の範囲を逸脱するのでこのくらいにしておこう。
 一般に現在主義者がよく採用するのは、物理理論を有用な何らかの規約の体系と位置付ける規約主義(conventionalism)である。だがそれは、どうしてある規約の体系が成功し別の規約の体系が失敗するのかについての問いを強引に遮断していて私は納得ができない。 前掲の書にも(正しいものとして)紹介されているローレンツ変換、これは現代の科学技術のいたるところで適用されているわけだが、その数式に具体的な時刻と位置の座標値を代入したら同時性の相対性は歴然と現れる。現在主義を主張したいならば、何故このようなローレンツ変換が成功し続け、同時性の絶対性が表現されたガリレイ変換では失敗するのかを現在主義の立場から明確に説明するか、もしくはそのような説明の必要はないことを明確に説明するかしなければ、それは単なる願望の表明であって説得力はない。

2.運動する三次元という表象について

 MITのブラッドフォード・スコウ(Bradford Skow)は、ブロック宇宙論を支持する論者の一人である。彼は「時間の移動スポットライト理論(The Moving Spotlight Theory of Time)」(4)を提唱し、実在する四次元的世界の中で何故我々の表象は運動する三次元なのかについての説明が提起された。この問題意識は私も同様に抱いていて、それは前掲の拙著にて「時空スキャン説」として展開したことだったが、彼のアイデアとは異なる。スコウと私とはブロック宇宙論を支持する点では立場が同じだが、彼の移動スポットライト理論には賛成できない。彼は移動スポットライトを当てることで運動する三次元表象が実現するような「超時間(supertime)」、「超時空(superspacetime)」の存在を想定しているが、そのような観測不能な形而上学的存在など、それこそオッカムの剃刀で削ぎ落としたくなるような代物ではないか。私の提起したモデルは、時空をスキャンする無数の自我が時空内に分布しているというもので、超時間、超時空は必要としていない。「自我」とは時空内をスキャンする何かであり、それは過去方向にも未来方向にも無数に存在していてどのスキャン「断面」も存在論的には対等だが、情報交換が物理的に不可能な関係にあるので、自身が唯一無二の存在だと思ってしまうそういう存在なのだというモデルである。これで現象の説明は可能になるのだ。
 ただし、私の考えはかなりマイナーである。そもそも、四次元主義自体がマイナーである。本稿はこのマイナーな立場の上に展開されるものであることをあらかじめ断わっておく。この現在主義と永久主義をめぐる問題は、目下、世界中の物理学者や哲学者が論争しているところであって、決着はついていない。だから、私はもしかしたら間違いかもしれない前提に立って思索を積み上げてきている。もし間違いだったら、私の人生は全くの無駄になるかもしれない。でも、案ずることはない。そんな人生、巷に溢れかえっている。

3.自我を考察するフレームワーク

 時空論の考察は、不可避的に「今・ここ」をめぐる問題と向かい合うことになる。「今・ここ」と「自我」とは重なり合う。が、微妙に違う。時間方向について昨日や明日の「ここ(=私の存在する空間領域)」は他我かというと、自我の生存が持続しているならば、そうではないとする見解の方が多そうだ。だが、ある時点の「ここ」も「あそこ」も共に自我だと言える状況は想定しづらい。(5) 自我は、空間的に限定された領域に閉じ込められていることが自明とされるが、時間的には延長した同一性があることを期待された概念だ。(本当に同一かどうかは別にして。)それで、「ここ」は「自我」のすべてだが、「今」は「自我」のほんの一部だと捉えられる。
 「今・ここ」は「時空点」とも違う。「時空点」は時間的空間的一点を指すが、「今・ここ」には幅がある。その幅は身体のサイズ、そして心の瞬間をとらえるサイズに依存している。人間の心はある一ナノ秒間を「今」として感知はできない。かつ、ある一万年間を指して「今」と感知する能力もない。地質学的にはほんの一瞬の時間幅なのに。「時空点」は認識主体とは独立に考えられる物理的概念だが、「今・ここ」は認識主体の心身規模に依存した概念なのだ。
 物理的には「私」は、生れてから死ぬまでの間、宇宙に存在するある四次元立体、時空ワームである。このような時空ワームは無数に、対等に存在しているが、「私」という属性の付与された時空ワームは、宇宙で唯一無二のものである、ただし、その時空ワームにとって。地球、太陽系、天の川銀河系、これらは、宇宙にあまた存在しているそれぞれが対等な無数の天体の一つでしかないわけだが、「ここ」にある天体だから、他とは別格の存在に位置付けられる。
 では、自我は、自身(もしくは自分たち)を唯一無二のものと捉える意識、精神のことか。しかし、私は、自我を意識のような心的主体に還元するのは好まない。無意識状態でも、酩酊していても、自我は自我だ。それと、自我は人間特有のものと考えるのは、実質的に不自然だ。知性の出現が生命進化の過程における連続性の中での出来事であるように、自我にもそのような連続性があるはずだ。であれば、生命の進化過程に対応づけられるような自我論のフレームワークがあっていいのではないか。
 私は、自我か非自我かではなく、どの程度に自我か、どのように自我かという問いを進めていけそうな枠組みがあってほしいと思った。それで、「自我」という概念を三つの局面に分けて考えてみることにした。
 第一は、「基底自我(Basic-Ego)」略して「B自我(B-Ego)」
 第二は、「拡張自我(Extended-Ego)」略して「E自我(E-Ego)」
 第三は、「内省自我(Reflective-Ego)」略して「R自我(R-Ego)」
 以下、それぞれについて、順に説明していく。

4.基底自我(Basic-Ego)(B自我)について

 基底自我(以下、B自我)とは、「ここ」を認知する能力を持つ主体である。「『ここ』を認知できる」とは、「内と外を区別しそれに反応する機能が内部に備わっていること」とする。
 単細胞生物は、細胞膜で内と外を区別し、エネルギー・物質代謝で恒常性を維持することをやっているから、「『ここ』を認知できる」ものに含まれる。よって、B自我を持つ。だがパラサイト的ナノマシンにすぎないヴィルスは微妙だ。彼らが生物か非生物かが微妙であるように。風船は内と外があるが自らそれを区別し反応する機能を備えていないから、「『ここ』を認知できる」ものには含まれない。よって、B自我を持たない。風船の内と外を認知するのは、風船以外の何かであって、風船自身ではない。岩石は無論、B自我を持たない。素粒子もB自我を持たない。地球は、(今のところ)B自我を持たない(としておこう)。まるで自我を持っているかの様な振舞いを示す機能を搭載したロボットは、どうだろう?単に、諸々の入力・蓄積情報に高度に反応して、表情、仕草などをリアルに表現し、人間にあたかも自我を持っているかのように思わせているだけなら、B自我を持たない。もしそれが、何らかの意味で、内と外を区別し、恒常性を維持する機能を持っていたなら、別に愛想のいい反応は一切しなくても、B自我を持つものに分類したい。
 大腸菌にも自我があるといいたいのか?と言われそうだが、私が述べているのは、自我ではなく、B自我である。これは、通常の文脈では、「身体」のような用語が対応している対象と重なっている。細胞はすでに立派な生活者である。「生活する」とは、次に述べるE自我との相互作用の中で発展・衰退を伴いつつもB自我を維持することなのだ。
 細胞が多く集まり、皮膚や粘膜といった多細胞の構造物で、より高階の「内と外」を区別する仕組みが形成される。多細胞生物の一個体は一つのB自我を形成する。では、各臓器はB自我を形成するのか?これは微妙だ。さらに、アリやハチのようにコロニーを形成する生物がいるが、超個体とも表現されるこれらのコロニーはB自我を形成するのか?これも微妙だ。では人間社会は?国家は?これらは、内と外を区別しそれに反応する機能が内部に備わっているのではないか。「我」と「我々」の問題・・・。議論の余地のありそうな事柄が色々出てきそうだが、それはそれとして確認しつつ、まずは、概念を置いたところで、次に進もう。

5.拡張自我(Extended-Ego)(E自我)について

 拡張自我(以下、E自我)とは、B自我に依存して意味を持つ属性の集合を指す。
 たとえば、「朝日」というのは、一種のE自我である。客観的に存在する太陽には、朝日とか夕日とかという属性はない。黒点とかフレアとか表面温度とかであれば、観測者には依存しない太陽の客観的属性として存在しているが。「朝日を見た」とは、太陽が地平線から見え始める直後のような位置や時刻に身をおいて太陽を見たということであり、太陽そのものだけを見たわけではなく、自分を起点としての太陽や地球の関係性を体験したということなのだ。「朝日を見る」というのは、自己と自己を取り巻く環境との関係性の一つを見ることなのだ。だから、太陽の朝日として現象している状況は、B自我の外部(External)にありながらも、総体的な自我を構成する諸体験の一つであり、拡張された(Extended)自我なのだ。無論、同じ朝日を複数のB自我が共有するが、それぞれのB自我ごとに微妙な違いを持つ。ある時代に流行した歌謡曲を聞く体験を大勢が共有しつつも、それぞれが微妙に異なるように。外界の体験は、非自我として自我に対峙するものとしてではなく、むしろ自我そのものを構成する重要なファクターとして捉えたい。
 四次元主義的観点からすると、B自我は一つの時空ワームに対応している。だが、時空ワームの表面の内側のみが自我なのか。普通はそう思われるかもしれないが、私は、それでは少なくとも総合的かつ具体的に自我というものを把握していく上で不十分だと考える。時空ワームを取り囲み、時空ワームと相互作用している諸現象すべてが、自我をまさに具体的な自我たらしめている。それらの諸現象も時空内に四次元的に存在している。それに時空ワームの内部の物質は時々刻々入れ替わっているわけで、時空ワームたるB自我は、それを取り囲む諸現象であるE自我に支えられて、時空ワームたりえている。
 そういうわけで、E自我は、B自我に対して環境的な(Environmental)事象の総体を示している。(6)そして、B自我が自然界の階層構造に対応して階層的であるのに応じて、E自我もそれぞれの階層特有の様相を示すだろう。
 より上層部の階層に着目すれば、B自我の「所有」という様相が現れる。動産、不動産を問わず、それらの物件は、B自我(もしくは複数のB自我の集合)の存在があって、はじめて所有物としての属性を得られる。だから、所有物は、一種のE自我である。さらに所有物の背景には、B自我たちの様々な社会的力関係が複雑に機能している。そういった社会的機構との受動的ないし能動的接触体験の総体もE自我を形成する。この段階では、E自我は経済的(Economic)な諸事象の集合でもあるのだ。

6.内省自我(Reflective-Ego)(R自我)について

内省自我(以下、R自我)とは、B自我、ならびに、E自我の諸現象をモニターし、言語システムのような、諸現象を集約的に叙述し世界モデルとして再現できる機構を有する段階に達したB自我の、そのような機構を用いた活動事象の集合である。通常の文脈では、「心」とか「精神」とか、「意識」とかという表現があてがわれる事象たちである。そして多くの場合、これこそが「自我」だと考えられている。
 大多数の生物は、B自我とE自我だけで構成される時空ワームとして存在しており、R自我を必要としていない。シンプルさという戦略を採用した例えば昆虫などは、長い歳月に培われ遺伝子に蓄積された巧妙なプログラムを駆動させるだけの方式で、地球上に大いにその個体数を増やすことに成功した。彼らは過去を振り返って反省したり、未来を心配して悩んだりといったことにエネルギーを費やさない。その時その時をあるがままに生きて、一部の個体が命を次世代につなぎ、そして死んでいく。これはこれで、生き方の確かなる成功事例である。
 しかし、ある種の生物、特に動物の中には、別の戦略を採用していったものがある。生き残っていくためには、捕食を成功させ、また捕食者から逃れることにも成功し続けなくてはならない。そのために、過去の経験を蓄積し、未来を予想して、さらに仲間と連携することが摸索される。現在のこの地球では、この方向で進化していった脊椎動物の系譜の頂点に、人間がいる。この生物は、言語を他の生物より群を抜いて、高度に発達させ、抽象的世界把握と具体的状況への応用という手法で、狩りに成功し、農業に成功し、製造に成功した。文化、芸術のように他の生物が殆ど発達させていない分野も花開かせた。
 R自我は、E自我の中でうごめくB自我を言語的に表現し、その表現されたものこそが自分だと認知する。そしてE自我とB自我が対峙した世界モデルを構築する。そのプロセスにおいては、他のB自我との関わりは欠かせない。他者とのやりとり、相互の反射(Reflection)があってこそ、B自我やE自我をモデル化し、反省や期待や不安という状態を繰り返すことが可能になるのだ。
 かくして、モニタリング装置のR自我は、R自我こそがリアル(Real)な存在だと思い描くようになるまでに進化する。そして、R自我は、様々な意味でB自我やE自我に、さらにはR自我自身の活動結果にさえ、頻繁かつ持続的に四苦八苦させられ、R自我の中には「一切皆苦」のような世界モデルを構築するものまで現れる。
 今のところ、我々は、人間的な形態のR自我しか知らない。だが、R自我がR自我であるためには、それがタンパク質・核酸系の素材に基づく身体によって実現されていることが必要条件になっているとは考えにくい。シリコン系の素材でも、その他、我々が想像だにできないような素材でも、B自我とE自我をモニタリングする仕組みが高度に発達していけば、R自我は創発しうるのだろうか、さらに、「高度に発達」とは具体的にどういうことなのか、興味深いテーマだ。
 神経網のように情報が行きかうようになった地球(表面)は、将来、R自我を持つようになることがありえるのだろうか?だが、R自我は反射し合う仲間が必要だ。それなしでR自我は創発しうるのだろうか、これも興味深いテーマだ。

7.時空内存在としてのR自我

 再び、四次元主義的観点から考察する。相互作用するB自我とE自我の諸事象の連なりが、ある自我の時空ワームを構成する。R自我は、この時空ワームに対峙してこれを対象として見下ろす認識主体として存立している、などのような考え方を四次元主義者である私はとらない。R自我もまた、時空内に散在する諸事象なのだ。感じたり、怒ったり、期待したり、落胆したり、・・・これらの心的事象もまた、蛙が池に飛び込んだり、木の葉が風で揺らされたりの事象と同様、時空内存在であり、それらの事象をB自我とE自我の諸事象とともに総合的に過去方向から未来方向にスキャンしていく何かがあって、それが「意識」と呼ばれているものではないかと私は考えている。
 繰り返すが、これはかなりマイナーな考えである。ただならぬ反論、拒絶があろうことは自覚している。だが、私なりにここ数十年、考えに考え続けてたどり着いたところのものであって、こんな思索の事例もありましたと提示するのも、悪くなかろうと思っている。もっと言ってしまうと、このような私の思索もそれに対する諸反応もそれはそれで時空内存在なのだ、ということで、完結してしまってもいる。
 ここにいたって、ふと浮上した言葉がある。道元の『正法眼蔵』に出てくる「心身脱落」だ。禅の修行にも学究にも無縁な私が口にすべきことでもなかろうが、「無我とは何か」というかつての問題意識が、四次元主義的観点から、再浮上した。「無我」と言っても、B自我もE自我も、さらには、R自我さえも、時空内に存在してしまっているわけで、それを物理的に無にできるものではない。だが、B自我、E自我、R自我が一体となって時空ワームを構成しているというアイデアは、「梵我一如」に通じはしないだろうか。R自我こそがリアルな存在だと思い描くR自我の本性を自覚しつつ、それはそれとして受け入れるというのは、実は「無我」に通じる何かがそこに潜んではいないだろうか。
 私は、四次元主義は、三次元主義的自由観を打ち捨てた先の自由にアプローチする立場ではないかと考えている。「真実」や「正義」や「支配」などの価値観に追い立てられるように振り回されるところからも、逆に、やみくもにそれらを否定したりするところからも、一歩退いたところから、それらと冷静に向き合える自由。あるいは、「我/我々」とそれ以外とを対立的に捉えて「排除」することに余念のない思想からの自由。「真実」も「正義」も「支配」も「排除」も、とにかく疲れる。それに、やさしさがない。宇宙との一体感はやさしさをもたらす。肩の力も抜ける。それで、「心身脱落」なのだ。


   2018年1月


(註)
(1) 拙著『四次元時空の哲学』では、「ミミズ」と訳したが、カタカナ用語の「ワーム」が日本語での学術用語としては定着したようだ。これは、一般相対論的宇宙論で議論される「ワームホール」とは全く関係のない概念なので注意してほしい。
(2) パトナムは「水槽の脳」の思考実験で懐疑主義的哲学と対抗するなど、心の哲学の分野で有名。活動は多岐にわたり、政治的にはヴェトナム反戦運動に関わるなどリベラルな立場にいた。
(3) 英語版Wikipedia、「Rietdijk-Putnam argument」参照。
(4) Bradford Skow "Objective Becoming" (OXFORD UNIVERSITY PRESS, 2015)
(5) 身体と緊密に連携できる感覚装置を複数装着させて、それらも含めて私の身体とみなした場合で、それぞれの感覚装置を互いに離れた場所に置いた場合、「ここ」も「あそこ」も自我だと言える状況が実現できるかもしれない。さらに興味深いことは、これら遠隔的感覚装置を、宇宙的規模の長距離に引き離して、互いに異なる速度で移動させると、一つの「自我」が、複数の同時性断面を持つとも言えそうな状況が実現できそうなことだ。ここで「自我」なるものをどう捉えるかにもよるが。つまり、身体(およびそれに準ずるもの)を含んだ総体をもって「自我」とするのか、「今」を意識する機構が位置する部分のみを指して「自我」とするのかにもよる。
(6) この点で、ユクスキュル(Jakob Johann Baron von Uexküll,1864-1944)の「環世界(Umwelt)」という概念と重なる部分があるかもしれない。


(訂正とお詫び)
本稿掲載の「季報 唯物論研究」第142号で、以下の編集上のチェック漏れがありました。
 [1] 86,87ページの間で一行(「をおいて太陽を見たということであり、太陽そのものだけを見たわけではなく、」)の重複
 [2] 88ページ下段にて、「...興味深いテーマだ」の次の句点「。」の欠落
お詫びとともに訂正いたします。

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