(2025/11:発行(12月)) 「季報 唯物論研究」第173号 にて掲載   (特集「問われる仏教、問う仏教」

ブロック宇宙と仏教のあいだで

村山 章(Murayama, Akira)             2025年10月 執筆

index

  1. 1.反発から始まった関心
  2. 2.アビダルマから唯識へ、そして時間論
  3. 3.自由という問題――決定論と解放の交差

※本ページは誌面掲載版をウェブ用に再整形したものです。表記・段組はウェブ向けに一部調整しています。

1.反発から始まった関心

私が仏教を意識し始めたのは、正直に言えば反発からだった。近親の葬儀で、戒名によってお布施の目安が違うらしいと耳にし、死後にも差がつくのかという苛立ちがこみ上げた。のちに、位牌が中国で発達し日本で民間に広まった要素をもち、儒仏習合の中で定着したこと、戒名は本来は出家者の法名に由来しつつ日本では在家にも授与されるようになったことなどを学んで、地域や寺院の慣行に根ざした文化として理解するようになったが、若い頃の違和感は私の中で発火点のまま残った。

最初に開いた経典が『般若心経』である。短い経に「空」の思想が凝縮され、五蘊・十二処・因果の枠組みが自性なき在り方へと読み替えられていく。その否定の徹底には魅了されたが、当時の私は「認識論なら西洋哲学のほうが筋道が見えやすい」と感じ、そちらに傾いた。

やがて科学が私を引き戻した。相対論と量子論の奇妙さは、古典的哲学の言葉だけでは捉えきれない。とりわけ四次元時空――しばしばブロック宇宙と呼ばれる像――に惹かれ、観測問題に頭を悩ませた末、過去と未来の実在性(決定/未決定)という観点では両者は対称的なのではないかという直観に取り憑かれた。そこから量子力学の解釈に、私は三つの入口を見た。

私は、論理の均衡からは多世界に頷きつつ、無数の実在分岐を生きるという想像にどうしても耐えかね、気づけば(少数派の)超決定論に寄る瞬間がある。世界は、量子もつれを含む個別事象の網目としてただ在り、量子力学はその抽象的記述にすぎない――そんな唯名論じみた反実在論を逡巡することもある。現代理論物理が、完全な具体性を原理から一意に導出することの困難を自ら示してしまったようにも見えるからだ。この地点で、私はふたたび仏教を思い出す。自由はいったい何を意味しうるのか。ブロック宇宙的な決定論と、仏教が説く心の解放は、どこかで触れるのではないか。

2.アビダルマから唯識へ、そして時間論

釈尊の入滅後、教えは口誦で伝えられ、やがて経・律・論に大別される形で編まれた。経は説示、律は共同体の規範、論は後代の理論的整理である。釈尊の語り口が具体の苦に即していたのに対し、後代の論師たちは抽象概念の厳密化へ向かった。その流れの中核にアビダルマがある。

古代インド仏教には多様な部派があったが、説一切有部は「三世実有」――過去・現在・未来の法がそれぞれの様態で実在する――を論じ、時間の形而上学をめぐる古典的議論を形成した。世親(ヴァスバンドゥ)の『阿毘達磨倶舎論』は、有部の体系を緻密に整理しつつ、経量部的な批判も織り込むという、きわめて学統的な書である。のちに世親は兄の無著(アサンガ)の影響も受けて唯識に転じ、認識と表象の働きを中心に据える思想を鍛えた。ナーガールジュナの中観が自性否定を突き詰めて空を示し、唯識が認識の条件を徹底する――この二つの軸は、後に大乗思想の広い地平をかたちづくった。

ここから物理学との接点が見えてくる。アビダルマに見られる分析的抽象性、縁起に立脚した関係性志向、そして宇宙論的視野は、モデル化と構造把握を重んじる現代科学の思考と、方法論的な親和性を示す。だからといって、仏教が科学を導出したり、科学が仏教を証明したりするわけではない。ただ、時間をどう「実在」とみなすかという問いに、古典仏教の部派論争は思いがけず豊かな比較対象を与えてくれる。ブロック宇宙(四次元的な固定像)が直ちに三世実有と同じだと言いたいのではなく、「時間の有り様」そのものを理論の中でどう位置づけるかという問題圏が、両者に共通して立ち上がるということだ。

また、『般若心経』に象徴される空のテーゼは、事物を自立的実体として把える心の習性をたしなめる。量子論が私たちに教えるのも、世界を“物”の集合ではなく過程と相関の網目として見る視角である。デコヒーレンスや量子ダーヴィニズムは、観測者が関わる以前に環境が情報を配分し、誰が見ても同じに見える状態(指標状態)を立ち上げる。ここには、「関係の構造が可視の姿(相)」を支えるという直観の相似がある。

3.自由という問題――決定論と解放の交差

さて、ブロック宇宙的な決定論からは、「自由は虚構か」という懐疑が避けがたい。超決定論的な視座では、測定設定すら宇宙全体の条件にあらかじめ織り込まれている。だが、仏教の語る解放(ヴィムッティ)は、未来の未決定性を根拠にしているわけではない。むしろ、心が自らを固定化する作業――「私」「所有」「成果」への執着――をほどいていく技法として説かれる。言い換えれば、自由は「起こる事象を好き勝手に作り替える力」ではなく、「起こる事象との関わり方を解像度高く選び直す力」として再定義される。

この再定義は、決定論と矛盾しない。事象の全体像が固定的であろうと、心の立ち位置・注意の向け方・行為の型が変わることは、同じブロックの別断面を開示する操作として理解できる。注意と行為の学習が強化されるほど、苦を増幅する反応様式は弱まり、自我の「硬さ」もほどける。私はこの点に、仏教とブロック宇宙の接点らしきものを見る。未来の「可変性」に賭けるのではなく、関係の取り方の可塑性に賭ける――この転回が、決定論下における実践の意味を回復してくれる。

私自身は、涅槃や往生という語に積極的にコミットしてはいない。只管打坐に身を委ねる性分でも、他力の救済に身を投じる性分でもない。それでも、自我を時空的な出来事連鎖の一つの「像」として眺め直すとき、肩の力がふっと抜ける瞬間がある。沖縄のことばで言う「なんくるないさ」は、諦念ではない。関係の取り方を学べば、やっていけるという身体の記憶だ。ブロック宇宙の静けさに、仏教の実践が差し込む余地は、意外なほど広い。

多世界か、一世界か、あるいは実用主義か。私はまだ決められない。けれど、どの理論図式を採るにせよ、自由を「関係の織り替え」として理解するなら、私たちは今日の歩幅を少しだけ整えられる。期待と不安と後悔に満ちた生のただ中で、煩悩具足のままに、しかし関係の取り方だけは少しずつ上手く。それが、私にとっての「仏教×ブロック宇宙」である。


英語題:Between the Block Universe and Buddhism(副題:Rethinking Freedom