『鬼滅の刃』というマンガ・アニメが世界的に大ヒットしている。平安時代から大正期に至るまで暗躍してきた「鬼」の討伐隊として抜擢された鬼殺隊は、各々の流派の呼吸の使い手となることで、飛躍的なパワーを発揮できるという。超人的能力取得の手段が呼吸というアニメはユニークだが、スポーツや音楽に勤しむ人たちは普通に呼吸法を日々探求しているし、ヨガなども呼吸法が基本である。 だが、我々が意識できている呼吸という行為は、生命科学的に考えれば、本質的な過程ではない。肺に送られた酸素は、赤血球に乗せられて各細胞まで運ばれ、細胞内のミトコンドリア内で、糖質が分解され、複雑なクエン酸回路で生成された補酵素を媒介に電子伝達系でエネルギー貯蔵物質ATPを高効率で生成する。ここでは量子トンネル効果を利用しているらしい。結果、大量の水素イオン(陽子)が、生成され、このままでは、強酸で細胞が崩壊してしまうが、吸気して得た酸素が結合して水となって中和される。一方、クエン酸回路では、二酸化炭素も生成され、これは、呼気として排出される。ミトコンドリア内の高度な化学反応機能こそが呼吸の真髄であって、吸ったり吐いたりは、前処理後処理でしかない。そして、意識が認識できるのも、この部分だけである。いかに「全集中」して呼吸しようとも、ミトコンドリア内での過程は無論のこと、肺から先の過程は意識の対象には上らない。 この前後処理としての「呼吸」行為は、随意運動と不随意運動の中間にある。身体の置かれた環境に応じて、息を止めたり、深呼吸したりができないと不都合なことがあるので意識的制御が可能だが、ずっと息を止めてはいられないし、重度の健忘症の人でも呼吸をうっかりし忘れて死んだなんて話は聞いたことがない。昔は、息をしているのに脳死ですと宣告されたり、心肺停止状態から蘇生されたりなんてことがなかったから、「息をしている」=「生きている」という認識で充分だった。「生きる」と「息」とは、語源的につながっているみたいだ。ところで、「いきる」は「活きる」という字が充てられることもある。昏睡状態で息をしている人、生きてはいるけど、活き活きと生活しているとは評価されにくい。人間に限らなければ、じっとしているだけでりっぱに生活している生物は多々あるのだが。 人生を振り返って、「ああ、なんて沢山呼吸したのだろう」と感慨に耽る人はかなりレアであろう。「いろいろ恋をしたけど、ふられてばかりだったなあ」とか、「乾坤一擲の一大勝負に打って出たが、結局ライバルに成果をもっていかれたなあ」とか、「いっぱいカラオケ歌ったけど上手くならなかったなあ」とか、まあ、そんな類の想起が出てくるのだろうけれど、でも、期待や不安や覚悟や躊躇や後悔やらの心理諸現象を引っ提げて、そういった活動ができたのも、呼吸をはじめ、諸々の身体の基底的な機構が機能してきてくれたおかげだし、さらには、明確に意識されるかどうかは別にして、淡々とした日々の稼ぎとか、自然災害からの回避とか、政治的緊張との向き合いとか、さまざまなレベルでの集団的活動の重層的なすべてが歴史的関係も含めていっしょくたに連関しあって現出しているということ、それがリアルな人生というものなのだろう。 |
英語のLife (ドイツ語のLeben、フランス語のvie等)に対応する日本語は、生命、生物、生活、人生、生涯、寿命など、いくつもあって、それぞれ、ニュアンスが異なっている。Life Science を「生命科学」と訳されたら、例えばゲノムやエピゲノムの話などを想定してしまうし、「生活の科学」と訳されたら、賢いお洗濯の仕方の話とかを思い浮かべる。「人生科学」なんて銘打たれようものなら、どこかの宗教の講話かなと思ってしまう。翻訳者は、文脈で訳し分けるしかない。 マルクスのドイツイデオロギーの「A イデオロギー一般、特にドイツの」の章(註 (1) )などに頻出する「生活過程(Lebensprozeß)」という概念、田畑稔氏との対話や、著述を通して、自分の中でも、すごく重要なキーワードかなという気持ちが盛り上がってきた。だが、そこで引っかかったのが、Lebenの訳語が「生活」でいいのだろうか、という点だった。文脈的には、「生活」が比較的にもっとも妥当であろうとは思うのだが、Lebensprozeßは、田畑氏も指摘しておられたことなのだが、「生命過程」のような意味も含意しうる。「生活過程」の訳語ではそこが、抜け落ちてしまわないか、あえて「生命・生活過程」とか、「ライフ過程」とか、別の訳語にすべきだと強弁する気はないけれど、留意を喚起する必要は感じる。その後のマルクスが、物質代謝としての人間の生産活動に言及し、近年、そこが着目・強調されてきていることとも絡めて、Lifeなどのような包括的な言葉が日本語にないことをもどかしく思うようになった。中国語の「生活shēnghuó」の場合は、もう少し幅の広い意味になっているのかな。ともあれ、ないものねだりしても仕方がない。私は、以後、「生活過程」という言葉は、「生命過程」も含意したLife Processesの意味で使用することを宣言しておく。それでも、「生活」が「生命」も含んだ、つまり、Life等相当の用語であることを強調したい場合は、「生活(生命)」と表記することにする。 あと、「過程」という言葉、目的論的、終末論的世界観の影響下では、究極の何かにいたるための道程のようなニュアンスが込められがちになるが、私はそれを拒絶する。過程それ自体が実体なのであり、生活(生命)過程とは、生活(生命)という名の、一連の関連しあう時空内事象群全体のことを指しているものと理解することをも宣言しておこう。 |
生活過程という概念は、総括的な概念だ。あれもこれも、生活過程の一種、もしくは、一部だと総括されるような形で使用される。そして、直接的な概念でもある。色々分析した結果、これは生活過程であると結論されたりすることは、想像しづらく、そもそも、そこに生活過程ありと、直接的所与として、現存在に、いきなり立ち現れる何かなのである。科学的知見の力を借りて、我々は、幾重もの階層構造やダイナミクスを分析して読み解いていくことはできるが、生活過程概念で、生活過程を分析することはできない。 様々な、生活(生命)の諸階層を包括する概念を得ても、具体的な分析は、諸々の個別科学が築き上げた諸概念に頼るしかないというのは、無論、それは重要なことなのだが、哲学理論としては、何かさみしいものを感じてきた。生活(生命)の諸階層を通貫して分析的に語れる概念とか、枠組みとかがないものかと、考えてきた。 そこで思い当たったのが「分業(specialization)」という概念である。これは、人間の労働のあり方を示す概念なのだが、もっと、これを生活(生命)過程全般に適用可能な概念に昇華させて、生活(生命)過程のあり方、あるべきあり方等の考察や議論に活用できないかと思った。無論、茫漠たる「生活過程」なるもののほんの一断面が見通せれば、上出来という程度のものではあろうが。 ところで、生活(生命)の最基底層は、どこになるのだろうか。直接的所与性という観点からすれば、そもそも、階層の境界を定めること自体ナンセンスかもしれない。科学的な分析がされていようがいまいが、宇宙も精神活動もまさにそこに与えられているものなのだから。すると最基底層は宇宙なのか。確かに、真空も含めてこの宇宙に活き活きとしていないものなど存在しないし、宇宙の進化や活動なしに生物の出現や存続は不可能なわけで、だとすると、素粒子や天体たちの分業による生活過程から説き起こしていかねばならないか。それも大仰なことだ。慣例に従えば、細胞の誕生あたりが生命の誕生とされているので、最基底層はこのあたりに設定しておくのが無難かな。ヴィルスは、寄生先の細胞なしでは存続できないが、ヴィルスが生物進化の過程で重要な役割を果たしてきたこともあり、これも含めた細胞―ヴィルス系を最基底層としておこう。 細胞膜は、内と外、自と他、生と死などの初源的形態を発現させた。膜で覆われたカプセル構造を維持できるものが生き残る。膜の中では、それに寄与する構造が進化し、分裂して増殖できる機能を持つものが世界を制覇する。膜の中では、様々な機能を持った細胞小器官が出来、全体の生活を支えるため分業している。その中には、先に述べたミトコンドリアも含まれる。これは進化の過程で別生物を取り込み、共生関係を築き上げたものらしい。酸素呼吸は、光合成によって水中や大気の酸素濃度が高くなっていることが前提になる。その条件を作り出したシアノバクテリアや、それを取り込み共生した光合成細菌、さらには植物たちとの分業があってこそ成立するものだ。分業は、時間的に並行しているものばかりではなく、時間的な前後関係でも成立しうる。そのスパンは数秒のこともあれば、数億年のことだってある。 多細胞化した生物は、さらに多くの器官に分化した身体を形成し、各組織が分業して個体の生活過程を支えるようになる。個体は性に分化してその分業を進めたり、さらに群れを形成しその中で分業を進めたりして群れとしての生活過程を支えるものたちが現れる。多様化した生物たちは、それぞれ環境に適応しつつ、環境を変化させ、共生、寄生、食物連鎖などの相互関係、つまり生物界全体としての分業体制を築き上げていく。生物たちと分業の物語は、掘り下げれば延々と続きそうだが、本稿ではここら辺にとどめて人間たちの生活過程に視点を移そう。 |
狼など、群れで役割分担をしながら狩りをする動物は多い。彼らは、アリやハチのように遺伝的に分業を発現させている部分は少なく、状況に柔軟に対応可能だ。彼らは、高度な言語システムを有していないが、試行錯誤の行動の学習や様々なサインの交換等で、動物たちは言語なしでも分業を達成する。 人類も、ホモサピエンス以前では、分業の質や規模は、他の高等哺乳類よりも群を抜いて秀でていたわけではない。以下、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』(註 (2) )の各部の表題を時代区分用語として使わせてもらう。まず、《認知革命》において、大きな集団の中で虚構をも共有できるようになったというのが、サピエンスが分業の質や規模を格段に高めた第一のステップであろう。虚構を扱えるということは、実現していない状況を想像して頭の中でシミュレーションする能力を発達させることにもつながる。これは、偶然の実際的な発見に依存しないで、有効な分業の仕方を考案することにも結び付きうる。言語の発達は、分業の発達と相互補完的に促進していったのではないだろうか。 次の《農業革命》。食料の生産と備蓄での飛躍的な発展は、食料の獲得に携わらなくてもいい人の増加を可能にした。道具の生産に専念できる人とか。だが、何よりも、階級社会をもたらした。領地の保有は権力の要となり、軍隊に従事する専門集団ができ、軍隊は、その力を最大限に発揮するため、合理的な分業の在り方を追求する。 やがて、《人類の統一》、帝国の時代が到来。その中で「最強の征服者」貨幣は、分業化の広域化を一気に促進した。貨幣が媒介することで、専業化が容易になり、遠方との交易もし易くなる。人類の生活過程がグローバル化する。 そして、《科学革命》の時代。産業革命を経て、資本主義は、交換価値の増殖と蓄積を自己目的化し、人々の生活過程はその目的実現の手段として組み込まれて行く。分業は、科学的分析から最も合理的に采配され細分化されていった。また、存在していなかったような欲望を次々に創出し、分業はさらに多様化を遂げてきた。 |
私は、かねてから、情報革命をめぐる問題は、単なる技術論や政策論の範囲にとどまるものではなく、人類史、さらには生命史レベルのスパンで考えなくてはならないような事態が進行しているのではないか、だから、「生活(生命)過程」論と抱き合わせで考えていかなくてはならないのではと考えてきた。人類は、道具、機械に専門化(specialization)を託す生活過程を進めてきた。つまり、機械との分業である。情報革命の時代に入って、知的分野においてもさらにこの分業は進んできたし進んでいくであろう。 現状、高度に発展しつつある「人間たち+機械たち」の分業の在り方は、資本増殖というドミナントの目的に、ほぼ支配されている。人間解放の思想として、アソシエーションの在り方を探求するとすれば、それは、どういう分業の在り方に変革していくかという議論が、どういう分野に労働力が配分されるべきかという議論と相まって、主柱的役割を果たすのではないかと思っている。無論、それは労働者の立場を代表するという組織やオーソリティなどが決定して解決することではない。分業という分野での民主主義の実現という課題として探求すべきかと思う。 * ところで、ロボットは、生活者なのだろうか。息はしていない。息をしているかのように動くアンドロイドはいるかもしれないが、糖からエネルギーを獲得する必要はないから、呼吸は必要ない。でも、生活者か否かをエネルギーの取得方法で、線引きできるのだろうかとも思う。生活(生命)過程論は、そもそも「生活者」とは何なのかという問いをも携えて探求すべき根の深い課題なのかなとも思う。 |