(2022/11:発行(11月)) 「季報 唯物論研究」第161号 にて掲載   (特集「戦争と平和を考える――ウクライナ戦争と現代世界に課せられた課題」

「守るということ―何を守るのか?」

(Defenses; What should be kept?)

          村山 章 (Murayama, Akira)             2022年9月 執筆
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1.無力な哲学

 戦場において、哲学は無力だ。そこで、「存在とは何か」と根源的に考えていたら、自らの現存在が消滅させられてしまう。そこでは、ただ即自的に、身を守り、自軍を守り、「自国」を守り、そのために相手を攻撃、破壊し、殺害をも辞せずして相手の活動を停止させることに専念せねばならないわけで、哲学的反省をしている余地など微塵もない。戦場は、敵味方関係なく、哲学を木端微塵に殲滅する。
 私は今、砲弾が飛び交うような戦場からは、はるか遠い場所にいて、生活の場を侵略されたウクライナ人や、動員令からどう逃れようかと必死でもがくロシア人と違って、報道やネットなどでウクライナ戦争の日々の戦況や論評を見聞きしながら、あれこれ思いに耽っていられる幸運な立ち位置にいて、そのおかげで本稿のような雑文の投稿もできるということをまずは噛みしめよう。

戦争というひとつの事象、それは、確かに客観的にはひとつの事象なのだが、どんな立ち位置でそれと関わるかでその立ち現れ方が残酷なくらい深刻に違ってくる。立ち位置が具体的な現場に近いほど、全体的な真実からは遠ざかってしまい、ほんの些細で偶発的な事柄で運命も認識も過酷に左右されてしまうのだが、空間的・時間的に俯瞰できる立ち位置の観点では決して到達できない、ある種の真実がそこには立ち現れていて、敵とか味方とかという暴力的抽象化作用でリアルな個々人の現実の生活を消し去ってしまう非真実化と抱き合わされた強烈な真実がきっとそこにあるのではと想像しつつ、そんな探求は、誰一人として助けるわけでもないという哲学の無力さをやはり噛みしめるしかない。

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2.守るということ

 ウクライナ戦争が勃発してにわかに防衛論議が賑やかになってきた。ウクライナを見習え、日本は、いつまでも平和ボケして頭にお花畑を咲かせていては駄目で、国を守る意識を高めなくてはならないという声は、日々強まる。
 「守る」という日本語、これに対応する英語は、守り方の状況などで
protect, defend, guard, shield, secure, safeguard, shelter, preserve, conserve,・・・
など、数多くあって、それに比して、日本語の「守る」という語は、結構、包括的な概念だと言えそうだ。これは、何がしかの望ましい状態を保持する活動全般を指している。
 活動主体(これの外延は、個人、家族、小さな社会集団、国家、人類、生命全般などなど、文脈依存的に色々だ)は、何がしかの「望ましい状態」を保持しようとたゆまぬ努力を重ね、継続している。それが生きる(生活する)ということなのだと言い切ってもいいくらい、基本的な活動目的になっている。これらは、様々なレベルにおいて同時進行する。我々は、生きていくうえで、財産を守り、社会的地位を守り、会社の信用を守り、家族の健康を守り、自分の信念を守り、人間関係を守り、風水害や、地震、津波、火山、交通事故、あるいは感染症などから身を守り、詐欺や霊感商法から家庭を守り、権力の横暴から身を守り、さらには、お肌のはりとつやを守り、・・・と多種多様な「守る」課題に直面し、それらを日々解決していこうとしている。人生はそういう課題との格闘で、大忙しだ。そこにきて、さらに国まで守らなくてはならないとは。地球環境を守るという抜き差しならない課題も携えつつ、なんとも難儀なことだ。
 加えて、この活動の背景には、通常、意識されることの少ない多くの「守られている」状態がそびえていることも忘れてはならない。我々の命は、多くの免疫系、内分泌、外分泌、神経系等々の恒常性を保つ機構で守られている。さらに地球磁場で有害な太陽放射から守られ、木星の重力場で小天体の衝突から守られているなど、挙げだしたらきりがないほどの無数の構造で守られている。この基本的コンテキストの大前提の上で、日々の「守る」活動は営まれている。
 「守る」活動は、免疫系がまさにそうであるように、外敵を攻撃することを不可欠としている。逆に、細菌やウィルスは、自分たちの生存を守るために、免疫系を攻撃する仕組みを進化させてきた。状況に応じて、攻める活動は、守る活動に欠かせなかったりする。並行して、森の中の木々と菌類にみられるような共存共栄の仕組みも不可欠なのだが。

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3.戦況の推移

 2022年2月24日、「東部ドンバス地域の解放」を名目に、ウクライナの西側接近に焦りを感じてきたウラジーミル・プーチンの独断で、突如始まったロシアのウクライナ侵攻。北、東、南の3方向からの圧倒的な兵力により広大な領地を占領。そのまま、首都キーウに進撃して、短期間でゼレンスキー政権を排除しロシア支配下に置く目論見だったが、8年前にクリミアが奪われて以来、軍事改革を進めてきたウクライナ軍の抵抗は強く、航空優勢も許さず、巧みな戦術と西側の支援でキーウ攻略を阻み、4月には北部の占領地を奪還、多数のロシア将校を狙撃し、黒海でも、旗艦モスクワを撃沈、ズミイヌイ島も奪還など数々の反撃を示した。しかし、武器弾薬で圧倒的な優勢を誇るロシア軍の大量の砲撃で東部の占領地域が徐々に拡大され、互いに航空優勢が取れないまま、第一次大戦のような前線の膠着状態が長く続くだろうことが予測されていた。だが、ウクライナは、西側から供与された高機動ロケット砲システム等の精密兵器を的確に使いこなし、ロシア軍の兵站を潰し、南部へルソンのドニプル川西岸は補給を絶たれて追い詰められてしまう。このまま南部が奪還されることを危惧したロシア軍は、兵力の多くを南部に移転、9月初旬、その隙をつく形で秘密裏に準備された部隊が東部ハルキウ州を戦史にも残ると評されるような電撃的進撃にて奪還、ロシア軍は武器弾薬を残して潰走、その後の進軍にもより、東部攻略と占領維持のための重要な要衝をいくつも失い、対レーダーミサイルで航空優勢もウクライナ側に傾き、この戦況に不満な保守派に押されて、プーチンは、ついに部分的と称されるが実質総動員令に近いような発令に踏み切り、銃で威圧の住民投票で東南部4州を強引にロシアに併合し、単なる「特別軍事作戦」から領土保全を掲げる形にして戦況打開を図るのだが、ロシア国内では、深刻な動揺と反発と国外逃亡が巻き起こる事態に至っている。無理に動員された新兵は僅かな訓練だけで貧弱な装備を持たされて(自前で用意させられて)前線に送られ、かたや、最新鋭の武器を装備して、十分な訓練を施され組織運営も整い兵站でも情報戦でも優位に立つ士気旺盛なウクライナ軍と対峙せねばならない。しかも、兵舎すらままならない中で、この先、厳冬を迎えるのだ。
世界第二位を誇るロシア軍だが、ここに至って、この戦況を打開しウクライナを打ち破ってプーチンらの計画した戦果を獲得することは、飛んで来たミサイルが着弾寸前に百八十度回転して逆向きに突き刺さることくらいに、ありえなさそうに思われる。それどころか、戦争開始前の状態に比べてプーチンの望むのと正反対の方向に状況は進むばかりだ。ウクライナは、西側の最新鋭兵器で武装し、NATO加入申請もする。フィンランド、スウェーデンのNATO加入、NATO加盟国の結束強化、ロシア製の軍備の信用失墜で軍需産業は衰退、経済制裁による国内産業のダメージ、有能な人材の流出、旧ソ連時代からの周辺同盟国の離反、もうどうするのか。
確かに、長く軍事大国を誇ってきたロシア、信じられないくらいの弾薬のストックもありそうだし、この先、思わぬ手段で反転攻勢を試みるかもしれないけれど、それでもやれることはせいぜい戦争を長引かせることくらいに思える。その間に一体、どれだけの兵士や民間人の犠牲者を積み上げるのか。ウクライナ側の犠牲も少なくないだろうが、戦争の長期化でロシア側の犠牲は格段の規模で増え続けることになりそうだ。うまく捕虜になって延命出来ればいいのだが、命を張り合った戦争なのだから、簡単にはいくまい。督戦隊に撃たれるかもしれないし。戦局を整えるための時間稼ぎの停戦交渉にはウクライナはもう応じないだろう。戦争を終わらせるためにはロシアがクリミアも含んで全面撤退する以外にない。
この先、追い詰められて自暴自棄的に核に手を出すという最悪のシナリオに進むのか、ロシアに暴動が頻発してクレムリン政権が危うくなるのか、いざ歴史が動き出す時はとてつもなく急速だったりもするし、意外なところで膠着状態が続くこともありえる。予断を許さない状況は続く。

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4.何を守るのか

 地球表面には、国境線など元々なく、これは人間たちの共同幻想でしかない。それは事実だとしても、これは帝国主義者が際限なく支配を拡張していける口実としても利用可能なニュアンスも持つ。人間たちが精神的・文化的・歴史的な面も含んでの生活の営みを守る手段としての国境線というものは確かにある。ただ、過去の列強の利害で強引にひかれた線引きとか、資源を巡った駆け引きや政治、宗教上の覇権をめぐる問題が幾層にも絡み合っているとか、複雑な事情を抱えていることもまた確かである。そして、国境をめぐる紛争が、そこで暮らす生活者を守るという口実で、権益・権力の保持のために生活者の生活をズタズタにしてきた事例は後を絶たない。
 結局、守ろうとしているのは何だったのか、本当に守るべきは何なのか、そこを深く、絶え間なく、かつシンプルに問いただしていくことが、重要だと思う。
「平和ボケ」、確かにその通りかもしれない。だか、それより「戦争ボケ」の方が、たちが悪い。だいたい人間なんて、多かれ少なかれどこかぼけているもので、時々、突っ込みが入れられたりして、それで平和と笑顔が維持できている。だが、「戦争ボケ」は、突っ込みを容赦しないから、笑いも取れない。
 自分たちだけがいい子になって狭い殻に閉じこもってしまう「平和主義者」にも、何が守りたいのですかと問いたくなることもある。肝要なことは、戦争を引き起こさないことだ。主義主張を守ることそれ自体ではないはずだ。戦争を引き起こさないためには必要な軍備を持つべきだという主張をただはねつけているだけでは、運動は広がらないし、そうこうするうちに自分たちの力の及ばないところで際限のない軍拡チキンレースに巻き込まれていく事態が進行してしまうかもしれない。他方、仮想敵とみなされがちな国や地域に暮らす人々をも含んだ、多角的なアプローチの積み上げも模索されるべきだろう。大多数の人の本音は、戦争などしたくないのだ。なのに、何故こうなってしまうのか。守るべきものの優先度が、転倒しまくっているのだ。そこを国際的な連携で探求し反省を積み重ねていかねばならないのでは。
国家の威信をどう守るかなどよりも、お肌のはりとつやを守ることが優先される社会は、まさに平和だとも言える。とは言っても、つやとはりを守っているその世界の裏側で虐殺や拷問がなされていることを見て見ぬふりをしていたとしたら、どうなのだろう。気づいたら、家族や友人が戦場に駆り出されていたなんてことが現実に起こっているのだ。
 ロシアは、ソ連崩壊後の素の自由経済で弱肉強食の混乱を体験し、プーチンの率いる強い国家を歓迎した。だが、自由と民主主義の根底にあるべき基本的人権の尊重をおろそかにしたまま、社会の腐敗を放置した。その猛省を伴ってプーチン後の新生ロシアを構築し直してほしいと思う。まずは、敗戦を勝ち取らねば。日本もドイツも敗戦によってましな国になれたのだから。
 ウクライナは、まだ苦難の戦闘や防衛活動が続きそうだが、いずれ終結し、深刻に破壊された国土の復興を目指せる時期が到来するだろう。国際的な支援も得られるだろうし、方々に避難した人の国際的な経験も功を奏して、中長期的には明るい未来が期待できそうだ。しばらくは「戦勝ボケ」に苛まれるかもしれないが、いつの日か、「平和ボケ」を勝ち取って、頭の中にひまわりのお花畑が咲き乱れることを願ってやまない。

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   2022年9月

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