(2022/03:発行(5月)) 「季報 唯物論研究」第159号 にて掲載   (特集「表現の自由と不自由の狭間で揺れる社会」

「アーティフィシャル・アートへの妄想」

(A Delusion of Artificial Art)

          村山 章 (Murayama, Akira)             2022年3月 執筆
(概要)
 アートは人工化できるのか?アーティフィシャル・アートという造語を使って、近未来を見据えつつ、表現とは何なのかについて、とりとめのない思いをめぐらせてみた。
(キーワード)
 アート、テクノロジー、アーティフィシャル、ネオ・ヒューマン、レガシィ・ヒューマン、人工自我、表現と生活、表現弱者、表現強者


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1.初音ミク

 テクノロジーの加速的進展とアート表現のテーマで何か書けないかとの執筆依頼を受けた。正直、私は、芸術系の分野には疎いのだが、さしあたり、脳裏に浮かんだのが、初音ミクに代表されるバーチャルアイドルだった。CGのキャラクタがボーカロイドというソフトを使って音声合成された歌声と、巧みなダンスで数々の動画サイト、時にはコンサート会場さえをも盛り上げる。ただこれ、つまるところ、ピアノの延長だな、と思った。チェンバロやピアノは、弦楽器の弦を弾いたり叩いたりする指や腕の役割を、キーボードというマンマシンインタフェースを介して作動する機構が肩代わりしてくれる。ボーカロイドも人間の声帯を使って表現するタスクを肩代わりしてくれている。でも、これは、第一に人間が視聴して楽しめる歌を人間の設計の通りにやってくれているにすぎない。プロの歌手でもなかなか出せない高音を正確に発声できるけれど、人間の聞き取れない超音波や低周波で歌ったりしてはいない。第二に、バーチャルアイドルたちは、自らの表現願望に基づいて活動しているわけではない。あくまで、進化した楽器のひとつでしかない。
 技術革新はたしかに新しい表現手法を次々に可能にしていった。だがむしろ特筆すべきは、表現されたものを享受できる人、表現活動に参加できる人の範囲を大幅に拡大してきたことではないかとも思う。ボーカロイドや初音ミクというソフトウェア製品は、自作の曲や歌詞を、歌手や多くの演奏家たちを従わせたりなどせずとも、独り部屋にこもってパソコン上で何百もの音源を駆使して音楽プロデュースを試みることを可能にした。
 そして、何より、スマホだ。カメラマンでもなんでもないごく一般の人が、どんな状況にいても、それこそ戦場でも、すぐにその場で動画撮影してシェアできてしまう。ちょっと技のある人なら、ディープフェイクでありもしない大統領の演説を作って流したりもできてしまう。

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2.アートとテクノロジー

 アートとテクノロジー、語源を探れば、ラテン語由来かギリシャ語由来かくらいの違いで、自然(Nature)への人間の作為技芸全般を指していた。縄文土器とかを見れば、そこには、実用と祈りと美的表現とが未分化なまま、自分たちは生きたのだという重厚な存在感を放っている。近代になって実用性から自由になった分野が「アート」としてテクノロジーから分離独立させられていった経緯があるようだ。一方、アーティフィシャル(Artificial)は、「人工的」とも訳され、テクノロジーと緊密なニュアンスを持つ。では、アーティフィシャル・アート(Artificial Art)という言葉を作ってみた場合、それは何を意味するのだろうか?単純に訳せば、「人工芸術」だが、「人工の人工」とも解釈できる再帰的においのする不思議な概念だ。本稿では、この造語と戯れてみようと思う。

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3.ネオ・ヒューマンとレガシィ・ヒューマン

 まずは、アーティフィシャルではない従来型のアートの同定から始めよう。それは、ナチュラルヒューマンたちの技芸であり、生命進化の過程で獲得された素の心身とそれに適応させる形で発達した諸々の道具 (instruments(楽器とも訳される))とを使って、自然史・社会史を通じた生活過程で育まれた動機(motivation)で発信され感受され継承され改変されていく表現活動の総体を指すことにする。つまり、アートの主体であるヒューマン自体は、ナチュラルであることが線引きの条件になる。これに対して、アーティフィシャル・アートとは、ヒューマン自体がアーティフィシャルになることによって展開されることが予想される近未来型の表現活動の総体を指す。
なんで、こんなことを考え出したか、それは、サイボーグ技術、ロボット技術、生命科学、ナノテクノロジー、情報処理通信技術等の高度な進展と融合で、人間たちがこの先、自然な身体+精神のままでずっと居続けるだろうと考えることの方が不自然な事態が深まってきたからだ。ALS/MNDという絶望的な表現弱者になってしまう病気に対し、自らをサイボーグ化することで果敢に克服し、本まで出版する表現強者となって世界の注目を集めたピーター・スコット・モーガンの事例にも代表されるように、「ネオ・ヒューマン」(註 (1) )は、SFの題材から飛び出して現実的な過程に入ってきている。脳と機械とのインタフェース(Brain Machine Interface)(以下、「BMI」と略記する)は、今後高機能化と標準化のグレイドアップを繰り返しつつ進化していって、「昔誰もが皆情報端末を手に持ってうつむいて会話していた時代があったね」などと、地球の裏側や月面基地の友人たちとテレパシーで語り合う時代は、そんなに遠い先のことではない気がする。初めは視聴覚等の身体機能の障害を克服する目的で頭部等に埋め込まれたBMIだが、それは、単に欠落した能力の補完にとどまらず、ナチュラルな人間の能力を凌駕し、紫外線・赤外線や、超音波・超低周波を感知して、それを従来だれも持ったことのないようなクオリアとして体験できる脳を持つものが出現することが予想される。脳はとても柔軟に可塑的にできているから、訓練とAIとのコラボで新たな入力信号のパターンのやり取りに巧みに適合していくだろう。眼だって、何も顔の位置に固定されていなくてはならない必然性はないわけで、ドローンに自分の眼を載せて大パノラマの景観を楽しむとか、足元に眼をおいて昆虫視線で世界を見たりなんてことだって可能だ。さらに眼球を二個に限定する必要だってない。人間の感性は、もはやアプリオリに既定されたものにとどまる必要はない。感性そのものを自由に創造して、従来の人間ではおよそ体験不可能な領域に踏み込んでいける技術的基盤が整い始めているのだ。創造可能なのは感性だけではない。表現力そのものも大変革して行ける。人工声帯を装着して、ヒット曲『ギャオスの囁き』を超音波で歌うことだってできるし、ロボットテイルを装着し、さらにロボットアームを何本も追加装着して阿修羅像のような出で立ちで巧みにダンスすることだって夢ではない。そんな新たな文化に遅れまいと、健常者もこぞってBMI手術をするようになるかもしれない。無論、反動もあるわけで、尻尾不可、腕は二本までという厳格なルールに基づいた古典芸能の世界は、それはそれで保持されるだろう。昔ながらの身体や感覚を保持し続けている人間たちを、ここでは、敬意を込めて「レガシィ・ヒューマン」と呼ばせてもらうことにする。
 レガシィ・ヒューマンの脳は、簡単に機械で置き換えられない、汲み尽くしがたい奥深さを秘めていることは確かだが、演算、記憶、検索などの多くの分野でとても制限された能力しかないこともまた明白なわけで、近未来アニメが定番のように描いているように、ネオ・ヒューマンはBMIを介して脳とコンピュータネットワークとを直接連携してその弱点を凌駕した活動をするようになるであろう。レガシィ・ヒューマンは過去の作品に接して追体験するのに多大な時間と努力が必要であったが、ネオ・ヒューマンはごく短時間で大量の作品をスキャンし評論の次元を飛躍的に高めてしまうかもしれない。もはや、レガシィ・ヒューマンに期待されることは、ただひたすら「いいね」ボタンをタップすることくらいしか残されてないのかも。いや、そもそも、美意識自体が新たに創発されていく可能性もある。レガシィ・ヒューマンではおよそそのクオリアが享受できそうもない「&@#8%さ」とか「$ℵ§♪℃さ」とかについて議論されたりしたら、「いいね」ボタンのタップすらできない。

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4.モチベーションをも人工化

 表現や感性の多様化を際限なく推し進めていくこと、これはこれで表現の自由を追求する一つの形態かもしれないが、「表現の自由」とはそういうことに還元されていいものなのかという疑問が持ち上がる。俳句など、かなりの制約を自らに課しつつ無限の表現空間を作り出していっている。西洋音楽は十二音階の制約下で無数の楽曲を様々なジャンルで生み出し続けている。どんな分野であれ、表現活動は、大なり小なり何らかの枠組みを共有することで切磋琢磨してきた経緯がある。無際限な多様性は、それはそれで逆に為すすべを失わせて活力を奪ってしまうのかもしれない。
 そもそも、なぜ「表現」なるものをしなくてはならないのだろうか。ネオ・ヒューマンが、レガシィ・ヒューマンの壁を突破して新たな表現の地平を切り開いていく様を妄想してみたのだが、この妄想において暗黙に前提されていたのは、人間たちの表現へのモチベーションが何らかの形であり続けていることであり、これは、ナチュラルなまま放置されている。言い換えれば、ここの部分はアーティフィシャルではない。アーティフィシャル・アートとしては不完全なのだ。より完全なるアーティフィシャル・アートを追求するとしたら、表現活動へのモチベーションそれ自体が人工的(Artificial)に生成できるようになっていなくてはならない。
そんなことをして、何の役に立つのかって?いやいや、それは、無粋な質問というものだ。これはアートなのだから。

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5.葛飾北斎

 葛飾北斎は、八十八歳の生涯が尽きるまで、とことん絵画表現への追及をし続け、歴史に輝く多くの作品を残した。何が彼を突き動かし続けたのか、それが、名声とか富とかでないことは、日常生活が、娘の応為ともどもかなり無茶苦茶だったみたいなところからも、推察できるけれど、天才の真意は凡人の私にはわからない。ところで、北斎は北斎だけで北斎たりえたのだろうか。その背後には、江戸の町人文化を支える無数の人の営みがあり、浮世絵を実現させる数々の職人たちの技の蓄積もあった。版画を彫るにも刷るにも、さらにはできた絵を売るのにも、大小さまざまな工夫が込められていった。まずもって、浮世絵の題材にもなった人々の諸々の生活、その背景の自然環境とかがあってこそのものだし、そこに、浮世絵を愛好するもの、浮世絵師になろうと努力するもの、そこまでいかなくても、ちょっと人に自慢できるくらいに手習いしようと思うもの、そんな無名の人たちの営みの中に咲いた花のひとつが北斎なのではないだろうか。キノコは、笠状の子実体をその本体として認識されがちだが、この生物の実際の本体は、広範囲に広がる菌糸であって、笠状のものは繁殖のための一器官にすぎない。我々は歴史に名を刻む天才的な芸術家やその作品をもってアートを捉えがちだが、実はそれは、キノコの笠なのかもしれない。それらは目立つけれども、本当のアートの実体は、無数の表現願望を大なり小なりもった人間たちの地味な生活過程にこそあるのではないか。
 そう考えると、真のアーティフィシャル・アートを実現させようとするならば、天才的アーティストを人工的に作り出してみようなどといった発想ではまったく不十分なわけで、サイバー空間で営まれるエージェントたちの生活過程そのものをアーティフィシャルに構築し、そこからアーティストが創発されるのを待つといったアプローチが必要なのではないだろうか。

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6.自我の問題

 ところで、何かを表現したいという願望を人工的に作り出そうとした場合の前提として、そこにはそもそも自我意識が人工的に作り出せていることが求められてくるのではないだろうか。これ自体、大問題だ。自我を持っているかのような一連のふるまい、表出をもって、そこに自我があると判定するのは難しい。自己表現力旺盛な精巧でディープなフェイク自我に、引っ込み思案で表現力の乏しい寡黙なリアル自我が圧倒されてしまうなんてことは、起きえそうだ。そもそも自我とは何かなんて、時代によって微妙に異なりもするし、自我が自我であるための条件を厳しく設定しすぎると、レガシー・ヒューマンの自我も本当に自我なのか、実はゾンビではないかと怪しくなってしまう。と言って、「気づいたら、今ここにほかならぬこの私がいた」という気づきの発生条件がタンパク質の脳でなくてはならないという理論的根拠も見いだせない。そもそも自我は多くの個体間の相互作用で社会的に生成されるものかもしれないし、とにかく簡単に答えの出せる問題ではないけれど、本稿は、「妄想」なので、ここは、とりあえず、なにがしかのバージョンのチューリングテストで合格しうる自我が人工的に作り出せたと仮定して話を進めてみよう。

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7.最後の妄想

 それで、サイバー空間に自我を保有した多くのエージェントが、相互に連携しながら活動している状態を人工的に作り出せたとして、そこから、なにがしかの表現願望が生まれるのだろうか。表現は、突き詰めれば、一種の情報共有であり、情報共有を発展させていかないと、うまく「生活」ができないような、エージェントたちであればいいのか。だが、情報共有ということだけなら、蟻や蜂でもやっている。単なる「表現」ということなら、たいていの生物はなにがしかの表現をして個体間の相互連携をしているわけで、そうなると生物はみな、アーティストなのか。だが、アートはそもそもネイチャーの対立概念であったはずで、これでは自然=アート(人工)になってしまう。もやもやとしてきた。
まあ、とりあえず、エージェントたちは「生活」の発展のため、「表現」というものを発達させていくとしておこう。ここで、「生活」とは何かは、あえて不問にしたままで。そして、その「表現」は、その手法が写実的か抽象的か、直接的か隠喩的かを問わず、なにがしかの意味でのその生活空間内におけるリアリティを追及したものであり、それを共感し、残し、広める活動が文化的ミームとして保持されていくような、そんなサイバー空間が仮想的に構築できたと、強引に妄想してみることにしよう。
 サイバー空間のエージェントたちは「生活」を発展させ、やがて、いくつかの集団に別れ、集団内にも生活力で様々な上下関係ができ、そして集団間で覇権を争うようなことも起きるかもしれない。ある集団のリーダーが、自分の理想を実現するため、ある日、突然隣の集団に「攻撃」を加えてそこのエージェントたちの「生活」を破壊するなんてことも起きるかもしれない。そのリーダーは、おそらく、自身の正当性を表現するために、集団内で、情報を統制し、表現を厳しく制限するアクションを起こすだろう。他方、侵略された側の集団のリーダーは、持ち前の豊かな表現力を発揮して、他の集団のエージェントたちに惨状を訴え、支援を求め、集団内のエージェントを奮い立たせて決死の抵抗をするかもしれない。他の集団のリーダーは、侵略者のリーダーが、サイバー空間を支えるサーバーまでダウンさせてしまいかねない最終兵器をちらつかせるため、思い切ったアクションができずに戸惑ってしまう。遠くで評論家的に状況をあれこれ表現するエージェントたちがざわつき、騒然となるわけだが、そんな中で、戦場では、なんの表現もできないまま、生活に終止符を打たされるおびただしい数のエージェントたちがいる。侵略された側の者たちとしても、侵略する側に立たされてしまった者たちとしても。
 たとえ、サイバー空間内だとしても、やっぱり、平和が一番だ。
 とあるエージェントは思った。ある有名なエージェントの歌は、鮮やかな&@#8%らしさと、ほのかな$ℵ§♪℃っぽさとの絶妙なバランスがなんとも素敵でたまらない。自分も歌ってみたいと懸命に練習に励み、そしてある日、満を持して行きつけのバーチャルバーに出かけて披露した。すると、隣のエージェントがぼそっと呟く。「・・・・下手くそ」
 うん、ここまでくれば、アーティフィシャル・アートの完成度、なかなかのものではないだろうか。

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   2022年3月


(註)
(1) 『ネオ・ヒューマン ――究極の自由を得る未来』ピーター・スコット・モーガン 藤田美菜子訳 東洋経済新報社 2021年7月

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