『〈現在〉という謎』(森田邦久編著・2019年9月・勁草書房)という書物をめぐって、ネット上で哲学議論が賑わっている。(無論、マイナーな狭い世界でのことではあるが。)物理学の知識の豊富な分析形而上学の分野で活躍する森田氏の編集で、数名の哲学者と物理学者が論戦を交わすというスタイルで構成されている本書は、シリーズ「生と死」の講演会で知り合った人文死生学研究会の重久俊夫氏の紹介をきっかけに私も読んでいたのだが、そこで哲学者たちと論戦を交わした物理学者側の谷村省吾氏は、出版後も、長文の補足ノートの形で哲学や哲学者たちへの疑問、批判をネット上に展開し(註 (1) )、その歯に衣着せない痛烈・実直な議論が哲学や物理学の専門外の人たちからもブログなどで話題に上がり、にわかに盛り上がりをみせていた。哲学的ディベートの実例としておもしろいと思われたのか、永井均氏は大学の倫理学演習のテキストに本書を採用しているようだ。 ここでの主要な論戦相手は、森田邦久氏、佐金武氏、青山拓央氏で、時間論の分野で精力的に活躍する新進気鋭の哲学のプロフェッショナルである。青山氏については、心身二元論的主張への論駁、現在主義者の佐金氏については、絶対的同時性が客観的に存在するという主張が相対論と絶対に相いれないことなど、森田氏については、「時間に始まりがあるか」などで展開される形而上学的思弁の有意味性を問うような議論が主だった内容ではないかと思う。 谷村氏は物理学者であり、自然科学が提供する入念に実証された事実をベースに構築されてきている世界像と矛盾するような世界観を提起されるのは、容認できない立場である。ここで批判されている哲学者は、あまたの立場や関心の違いのある哲学者と呼ばれる人たちの中の数例であって、哲学全体が批判の俎上に上っているわけではなく、谷村氏自身もそれを認めているわけだが、哲学という思考活動の意義を問いただされた議論として、興味深い。 哲学の様々な潮流の中の代表的なものの一つとして、どんな認識であれ、それはまずは(この私の)意識の事実として立ち現れるわけで、それを多くの媒介を経て獲得されたある意味において「不純」な理論モデルをあたかも真の実在であるかのように前提してかかることにはことさら慎重であろうとする潮流があって、その影響はとても大きい。その流れの中で積み重ねられた思索の伝統を理解しない谷村氏には、議論がかみ合わないと哲学者側からの不満が噴き出ているようである。 本書の編著者、森田氏は、直後に『時間という謎』(2019年12月・春秋社)という著書も出版されている。近年議論されている時間論をわかりやすくまとめ、また物理学で押さえておくべき知見も解説されていて、参考になる。彼は、「動的時間論」VS「静的時間論」という用語で、論争を表現している。従来のA系列・B系列の用語を使った議論は、門外の者を寄せ付けない雰囲気をかもしていたが、時間論の議論に多くの人を参加しやすくしてくれたのではないだろうか。よく勉強されて豊富な知識を持っておられる方だと思った。ただ、あまりにも様々な立場を理解しすぎてなのか、結局、自分自身はどのような世界観を主張したいのかよくわからないという印象を持ってしまった。 |
私としては、この議論の行方がこの先どうなっていくかはわからないし、関与できることでもない。ただ、ここで扱われているテーマは、拙著『四次元時空の哲学』(2007年・新泉社)で取り上げたテーマであり、ここにあやかって、自分の見解をまとめさせていただこうかと思った。 論争の主軸は、時間の存在論上の三つの立場、現在主義・永久主義(ブロック宇宙説)・成長ブロック宇宙説をめぐってのものである。存在するのは現在のみか、過去から未来すべてか、過去から現在までかで、分析形而上学の哲学者を中心に盛んに議論されている。森田氏の分類では、現在主義・成長ブロック宇宙説が「動的時間論」で、永久主義は、「静的時間論」である。私の立場は、永久主義(ブロック宇宙説)だが、この立場を学びこの立場に立とうと思って立ったわけではなく、相対論などを学んで独自に思索してたどり着いた結果が、気づいたら、こう呼ばれていたことを後から知った次第である。ブロック宇宙説だと、時間が流れとして意識されている事実を説明できないので、それを説明する理論モデルとして「動くスポットライト説」が提起されている。これも、「動的時間論」に分類されるようだ。拙著でもこの問題を扱って、時空スキャンというモデルを提起した。「動くスポットライト説」は「今」を示すスポットライトは唯一だとしているが、私の「時空スキャン説」は、無数の「今」が同等の資格で時空上に存在していてそれぞれが時空をスキャンしているという立場である。こう考えないと相対論の同時性の相対性、並びにすべての時空点の対等性という観点と整合性が取れないからである。さらに言わせてもらえば、「スポットライト」の比喩はあまり適切ではない。スポットライトは行ったり来たりできるから、一方通行の動きしかしないスキャナの方が比喩としては適合していると思うが、学術用語の世界では、私の立場は、もし黙殺されることがないとしたら、「動くスポットライト説」の亜流として分類されるのかもしれない。 私はミンコフスキー時空図などをみて宇宙はそのように存在しているのだろうと思ったわけではない。それでは素朴実在論だと揶揄されても仕方あるまい。私は当初はこのような時空図は理論をわかりやすく説明するための人工的な道具立てにすぎないと思っていた。だが、距離を隔てた者たちの立場を同時性の相対性を前提に考えを重ねていくうちに、ブロック宇宙説と呼ばれている実在モデルにたどり着いてしまった。現在主義や成長ブロック宇宙説を成り立たせようとしたら、今の私という特定の原点を全宇宙の中心的存在として位置付けるような独我論的世界観を採用せざるをえなくなるのだが、それはしたくない。 |
谷村氏は前掲書『〈現在〉という謎』の執筆時点においては、永久主義をも批判している。「量子論では、ベルの不等式の破れや遅延選択実験や弱値といった概念・現象があり、未来に測定を行うまでは過去の出来事は確定しないと考えざるをえないケースがある。・・・(中略)・・・だから、永久主義における存在の概念が「観測の仕方に依存せずに客観的にあるはずだ」という素朴な存在概念であれば、永久主義は間違っていると私は思う。」(前掲書41頁)私も量子論を気にかけており、拙著でも、あまり多くの頁数をそこに配分できなかったけれども、EPR問題やベルの不等式のことには触れている。私の考えでは、相対論並びに量子論と整合的な世界像は、「過去から未来、すべてが決まっていない」か「過去から未来、すべてが決まっている」のどちらかであって、「過去が決まっていて、未来は決まっていない」は、客観的な絶対的同時刻か、もしくは宇宙で唯一特別な独我論的認識主体かを想定せざるをえないからありえない。量子論が「すべて決まっていない」の解釈と整合しやすいことは確かである。しかし、「すべて決まっている」の解釈とも整合すると私は思っている。そのためには、永久主義を首尾一貫させなくてはならない。首尾一貫した永久主義の立場からすれば、量子力学の実験も、観測も、人間の思考も、すべて全宇宙の構成要素としての一事象でしかない。ある量子もつれ状態の二つの素粒子のスピンの向きがある時間間隔中にどちらかの粒子が観測などのようなマクロ系との相互作用で確定するのか確定しないままであり続けるのかは、決まっていることなのだ。ある実験者が、どのような属性を観測対象として選ぶかも決まっていることなのだ。物理学者だけが、自由意思を持って宇宙と自由に対峙できる特別な存在であるはずはない。すべては、超複雑な全宇宙を網羅する単一の波動関数のようなものがあるだけであって、単純化した局所的波動関数モデルが観測によって収縮崩壊したとかという解釈思考行為自体もこの巨大な波動関数の一部でしかない。量子論は統計的な数理モデルで諸現象を抽象し統括する。それは統計的観点での実用的応用ができる理論ではあるが、この抽象理論が個別の現象を確定的に再現することは原理的にできない。つまり具体的事象を産出するイデア的主体にはなりえない抽象である。だから、私は、過去から未来にわたって確定的に存在する具体的諸事象全体がこの抽象化された法則性を成立せしめていると考えるようになった。ここまで考えて、ブロック宇宙説と量子論は整合すると結論した。 |
ブロック宇宙説、さらに、私の主張する過去から未来に存在する無数の自我の時空スキャン説は、現在の常識的な世界観とは乖離しているかもしれない。だが、大地が全体として球体になっているとか、太陽や星々が天空を移動するのではなく、地球が他の惑星とともに太陽の周りを回っているという考えも、元々、常識から乖離していたはずである。だが、地動説は、厳密な天体観測の事実を説明するだけでなく、日常的な現象をも裏付けている。だからと言って、「太陽が大地の回転によって視界から外れた」とかと日常会話で言わなくてもいいわけで、単純に「日が沈んだ」と言えばいい。相対論は正しいけれども、同じ天体上で暮らす人間的な生活時間の精度では、みな殆ど同じ時空断面を共有しているわけで、同時性はほぼ絶対的である。相対論や量子論の描く世界像は常識的世界像からかけ離れているけれども、なぜそのような常識的世界像を人間は持つのかを物理理論は矛盾なく裏付ける。だがその逆に、常識的世界像を常識的認識の水準を超えた宇宙の諸相に無理に適用しようとすれば、あちこちで矛盾が生じて、世界像は破綻してしまう。常識は単に否定されるのではなくより普遍的な観点で裏付けられるのだ。それが科学的世界観の歩んできた道である。 私の主張する世界像は、まだ多くの人と共有できていない、と言うか、かなり特異なものと思われるだろう。だが、ここに至るモチベーションは、ごく常識的な観点を守りたいという気持ちから来ている。それは、「過去は具体的に唯一決まった事実としてある」という信念だ。無論、知識としての歴史事実は常に見直され書き直され再評価されなかなか落ち着かなかったりするが、それでも客観的には歴史は唯一つであると信じたい、無数に存在する歴史の中の一つをたまたまこの私が認識しているにすぎないとは思いたくないのだ。もう一つ守りたい観点は、自分が特別な宇宙の中心ではなく、他者も同等の存在資格を有しているということである。つまり独我論的立場を拒絶したい。(私は、「独我論」と「独我論的」とを区別している。後者は他者の存在は認めても、従属的な性格しか認めないとする立場の意味で使っている。) こんなこと、当たり前ではないかと多くの人が思うかもしれないが、現代物理学の解釈によっては危機にさらされているという認識が私にはあり、これを守るためには、「未決定の未来」という世界観は捨てるしかないと判断した。 |
それでは、我々に自由はないのか、という問題が浮上するだろう。おそらく、現在主義や成長ブロック宇宙説を主張する人たちの最大のモチベーションはここにあるのではないかと想像する。私もそこはとても気になるところで、拙著では、第四章を自由についての考察に充てた。そこで私が言及したことは、抽象的な自由意思の承認が本当に自由をめぐる核心なのだろうかということである。ブロック宇宙説の観点から、未来は決まっているものだとしても、それがどう決まっているかはわからない。ある程度の推測はできるし、条件が整っていれば、かなり正確に予測し実践でき、人間は、その能力を大いに高めてきたわけであるが、それでも世界全体に占める複雑な諸事象を具体的に予測することはできず、今回の新型コロナの事態のごとく、思いもよらぬことで翻弄するのも人間だ。そして、自由意思の自覚を伴った思考や行動は、何も制限されることなく従来通りし続けられる場合はし続けられる。その意思そのものが実は決まったことであったというのは、後付けの解釈でなされえるに過ぎない。ブロック宇宙説は自由意思やそれに基づく行為を禁止したり制限したりするものではないのだ。それよりも自由な意思や行為に立ちはだかるものは、他にあるわけで、そうさせている世界の具体的なありようこそが自由問題の核心ではないのか、ということを言及してみたつもりである。 それと、ときに「宿命的」のような表現で語られたりもする、宇宙から個人的日常生活レベルまでの諸階層の具体的な歴史事実(全宇宙の現実)をまずそれはそれとして受け止めるという姿勢は、あまたの存在者への慈しみの前提でもあり、ただ抽象的な自由意思論を振りかざしているだけの立場よりも豊かな自由論が編み出せるのではないか、だからブロック宇宙説のもとでは自由は否定されるというのはいささか深さを欠いた議論ではないか、というのが私の立場である。 |
ただ、無数の時空断面のある時空断面だけがなぜまさにありありと自覚されるこの〈私〉の所属する時空断面なのかという問題はある。これは物理学の文脈では論及できないものだ。この〈私〉たりえる自己意識を持つ能力のある個体は客観的には無数にあるのになぜこの〈私〉なのかというのは自我論の哲学分野でよく語られているテーマだが、ブロック宇宙・時空スキャン説では、存在論的には対等な無数の「ここ・今」があり、さらに特定の「ここ・今」を指定してもそれを含む無数の時空断面(=我々の三次元世界)があるのに、なぜ特定の〈ここ・今〉、そして特定の〈我々〉が〈現在〉として立ち現れるのかという問題である。それこそが、まさに「〈現在〉という謎」であろう。それを物理学と対立してでも絶対的現在を認めて存在論的に解決していこうとするのが現在主義や成長ブロック宇宙説の路線なのだとすれば、ブロック宇宙説の立場の取るべき道は、その謎を謎のまま謎を共有しあえる者たちとの対話を深めながら、具体的な我々の〈現在〉という現実に向き合っていくことなのかな、などと私は個人的に考えている。 |
(1) Philosophy_observed_by_a_physicist.pdf『一物理学者が観た哲学』2019年11月6日公開 http://www.phys.cs.is.nagoya-u.ac.jp/~tanimura/time/note.htmlからダウンロード可 |