六十になって、初めての結婚、生活は一変した。自分だけの生活空間だけをキープして、死んだ親の所持品などの多くをそのままに放置していたのだが、二人の新しい生活空間を確保するには、かなり思い切った物の廃棄が必要になる。不要な皿や衣類や雑貨類を大胆に箪笥ごと捨てて、スペースを広げた。後は本とパソコン関係が残っているのだが、これがなかなか進まなくて、妻をいらつかせている。断捨離の「離」は、執着から解き放たれること、何も考えず、スパッと捨てるのが理想なのかもしれないがそれが出来なくて、整理の時間をくれと頼んでは引き延ばしている。そういえば、「生きる場から考える生と死」というテーマで執筆依頼が来ていた。何か書かなくては。でも、読書や思索に費やす時間がなかなか作れないな、何を書こうか。「死」といえば、妻が一四年間かわいがっていた愛犬が、昨年末に生涯を全うした。結婚生活を前に、上海の彼女の実家にあいさつに行った折、小さな弱り切った体で出迎えてくれた。あれが最後だった。 |
私が大学生の時に死んだ父の蔵書がたくさん残っている。もう、必要のないものは処分しようと段ボール箱に入れる。入れる前にぱらぱらとめくる。そして入れる。そして一晩経ったらやっぱり捨てるのをやめようとまた出してしまった本もある。例えば加藤文三の『昭和史歳時記』(1978年・青木書店)とか。著者は父より2歳若い1930年生まれで、中学の教職を務めながら日本史研究の著書を幾冊も書かれている。本書の初めの方の記述、「春先に顔を出す蕗のとうに宮本百合子を想い、梅の香に小林多喜二を、桃の雫に市川正一たちを、菊の香に尾崎秀美を偲ぶという、日本の季節をあらわす季語の一つ一つに、昭和史の事件をむすびつけていくことであった。」とのこと。私の得意な分野ではないのだが、歴史と俳句・川柳が大好きだった父の匂いが染みついている。三木清や戸坂潤など気になる思想家も登場する。昭和初期の緊張した言論活動の記録。そこに、父の歩んだジャーナリストとしての人生も重ねつつ、私は、私の限定された狭い意識の外の時空に生き、そして死んでいった人たちの一端をこの小さな一冊から覗き見る。 あるいは、こんな本も段ボールから復活させてしまった。高野悦子『二十歳の原点』(1971年・新潮社)。著者は、学園紛争の激しかった1969年に鉄道自殺した女子大生。おそらく死ぬ必要はなかっただろうし、死なないで、ごく普通に(あるいは過激に)年老いていく選択肢もあったのだろうが、彼女はともかく若くして命を絶ち、燃すことなく残された日記は、ベストセラー本として世に出る結果を生み、父もそれを買い、そして、半世紀後に私の目に触れる。彼女の生物的な存在としての時間は短かったが、若い苦悩と思索のきらきらとした痕跡がずっと時空内を伸びている。(鉄道自殺行為によって傷つけられた幾多の人たちのことは忘れられてしまったかもしれないけれど。) |
日本人の死因順位の上位を占める自殺。そう、珍しい死に方ではないのだ。私の生母も自ら命を絶った者のひとりだった。癌ノイローゼだった。当時、告知はまずしない時代だったから、変な勘違いが思い込みに発展してしまったみたいだ。しかしその背景には、前年まで続いた舅の老齢介護や、多忙すぎる夫、病弱な息子の世話などでの長年の疲労の蓄積が、冷静になれる心をむしばんでしまっていたのかもれない。ごく普通に明るい性格の人だった。そして笑顔の絶えないごく平凡な家庭だった。でもそれは一瞬で崩壊するものでもあった。 母は夫の立場を配慮して自殺を伏せるように遺書に書いた。父は重い葛藤があったに違いないがその意を汲んで、彼女の望んだ心筋梗塞の突然死という形で対処した。当時中学生の私は、太宰治とかライナー・マリア・リルケとかに夢中になって、青臭い孤独感で自殺への憧憬も無縁ではない内に籠る日々を過ごす者たちのひとりだったが、実はずっと深い孤独がごく身近に横たわっていたことにまるで気づくことができないでいた。 「どうして、人は自殺するのだろう。そんなテーマでいつか何か執筆してみたい。」そう父が私に語ったときは、冷静に客観的に見据えられる気持ちが整っていたのだろう。もしかしたら、『二十歳の原点』など、若い自殺者の手記などを買いそろえたのはそんな時期だったのだろうか。その父も、多忙な仕事から解放されて執筆活動に専念できる時期を迎える前に、死んでしまった。今度は、本物の癌であった。その日の満開の桜がずっとこころに焼き付いている。 |
部屋を整理していると、古い家計簿が出てきた。二人目の母が書き残したものである。父は、私が高校生の時、再婚した。再婚を前に母の自殺のことは包み隠さず話そうと父は私に言った。しかしその後、やっぱり話さないことにしたと語った。ずっと後で知ったのだが、本当は話していたのだったが、彼女は気味悪がってそれを受け入れることはできなかったようだ。新しい家庭生活を始めるため、それはなかったことに封印する、それが最善と判断されたのかもしれない。それ以降、ずっと、その話題は封印され続けた。その二人目の母は5年後に夫を失う。その24年後に、彼女自身も交通事故で突然命を失った。父が前妻の事件を実は打ち明けていたということは彼女の死後に彼女の妹から聞いて知ったことだった。 古い家計簿には、その日の出来事が簡単に記録されていた。結婚して、いきなり二人の息子を抱える生活を始める不安は決して小さなものではなかったろうが、前向きに日々の生活を積み重ねていく、そんな素朴な生活の記録が残っている。老朽化した古い家を出て新しい家に住む、それは父の生前からの検討課題で、時折、住宅展示場に家族で出かけた。結局、それもかなわぬまま父は生涯を閉じる。母は、その後奮闘努力して新居を購入、今私が断捨離作業をしている家がそれである。引っ越しに際して、祖父の遺品や不要な玩具など、かなりの量の物の処分をしたと聞いた。私はその時、遠く離れた東京でコンピュータソフトの仕事に追われていて全然手伝えなかった。母と弟が頑張って捨てた。父の集めた自殺関係の書籍もその時処分された。引っ越しした当初は、結構すっきりした状態だった。新しい生活の始まりだ。しかし数十年で部屋はあれこれの物で溢れてしまう。戦中戦後の物資の乏しい時代を生きた人は、物がなかなか捨てられず、収納用家具がどんどん増えていく。息子たちが社会人になった後は、彼女は文化センターに通っていろいろな趣味や教養に時間を費やした。その教材資料などが残っている。それらを、「生きたんだね」と心の中でつぶやきつつ、ひとつひとつ処分していく。私たちの新しい生活のためには、それは必要なことなのだから。 |
『写真図説・大正の名古屋』(1980年・泰文堂)、こんな本も出てきた。父が死ぬ少し前に買ったものだろうか、大正時代の名古屋の風景写真や事件、人物の写真記録が豊富に散りばめられて、世相史に興味のある人にとっては、資料的価値のある一冊かもしれない。折り込みのあるページがあった。開いてみると、祖父の若い日の写真が載っていた。原敬総裁が暗殺されたのち、立憲政友会は、政友本党が分裂。その時、県政の中で政友会にとどまった政治家の一人として紹介されていた。大正期には県議、市議として活躍していたらしい祖父だが、私の記憶には、囲碁、盆栽、水墨画、野球や相撲の観戦、パチンコなど趣味の多い楽しいおじいちゃんとして刻まれている。 その妻、つまり私の祖母は、私の生まれる直前に死亡していて、私は仏壇の写真でしか知らない。彼女は父の実母ではなく、父はそのことを成人してから知ってショックを受けたと私に打ち明けたのは、私の実母が死んだ後だった。父の実母がいったい誰なのか、二人目の母の事故死の後、戸籍謄本を揃えるために役所をめぐる中で、その名を突き止めることはできたものの、個人情報閲覧の制限が強く、深く探求することはできなかった。 過酷な歴史時代をくぐり抜けつつも、華やかで威厳と尊敬と充実感に包まれた人生を送ったように思える祖父の陰に、息子を手放した一人の女性の人生、実子ではない息子を懸命に育てた一人の女性の人生があったことを垣間見たように思った。 |
部屋の奥から古い小さなパソコンが出てきた。キャノンのX-07というA5サイズのハンドヘルドコンピュータだ。1983年、私が最初のボーナスを投じて最初に買ったパソコンである。モノクロ液晶の英数字4行のみの表示しかできず、機能のとても貧弱なBasic言語でプログラミングして使うしかない。でもこれでいろいろなアルゴリズムを組んで試してみた。ワクワクしながら小さなキーを叩いて入力した、個人的にはたいへん愛着のある一品だ。無論、今はもう何の役にも立たないけれど。 役に立たないと言えば、数多のコンピュータ関連の書籍、もうこんな技術、完全に陳腐化しているけれど、当時はいち早く習得しようと躍起になってかじりついていた。哲学の知識などは、その意義を(比較的)長期に保持できるかもしれないが、多くの分野において、知識はそれ相応の賞味期限をもっている。日々の業務に関連したその時その場にまさに要求される知識の賞味期限はさらに短かったりする。だが、そういう生もののペリシャブルな知識と時時刻刻取り組んでいくことがまさに生きていくことなのかもしれない。時折、「永遠不変の真理」とやらを舐めてみたりもしながら。 人は、(人に限られたことでもないが)心だけで生きているわけでも、心と身体だけで生きているわけでも、人々の群れとだけで生きているわけでもなく、多くの物との関わりを通じても生きている。物があるから熱くなったりもする。その関わりはその時その時においてアクティブであり、時が過ぎ去れば、生きている証の関わりのアクティビティは消え、物の物としての残滓が残る。物が物として存続しえているのは、それがまさに生きていないからだとも言えるかもしれない。 |
少し広くなった部屋でテレビも中古のやや大きめのものに新調した。ここのところニュースは、来る日も来る日も新型コロナウィルスのことばかりだ。ほんの少し前までは、武漢が大変なことになっていて、妻の友人の親の死亡などの話を聞いたりして、中国は大変なことになっているなんて思っていたが、瞬く間に世界中がパンデミック、医療崩壊の危機等で、急速な勢いでパニック状態になってしまった。経済活動も深刻な打撃を受け、今後の先行きが見通せないまま、命と生活の不安が充満している。長丁場の闘いになりそうだ。各分野の前線で日々格闘し続けている人たちには頭が下がる。 亡くなった人の中には著名人も少なくない。日本ではつい最近、志村けんの感染死亡が伝えられた。世代を超えた人気コメディアンで、話題の共有の形で多くの人を結びつける役割を果たしてきた者のひとりであり、まだ活躍できたであろう彼の死の無念さに多くの日本人が衝撃を受けている。無論、私も中学生のころから知る有名タレントの死に大きな喪失感を抱かないではいられない。 もっとも、コロナでなくとも、遅かれ早かれ人は死ぬ。彼のように多くに惜しまれて逝く人もいるけれど、そうでもなく生涯を閉じる者は無数にいる。それぞれの生、それぞれの死がある。ただただそこにある。生や死にあれこれの意味づけをすることは、生活者としての人間のアクティビティの一つだろうし、それが悪いこととは思わないが、ただそれだけのことであろう。 人は、(少なくとも私は、)「私」という時空内の宿命的座標原点からの体験という事象の集まりを「時間の流れ」という形式でまさに体験していく。きっといつかそれは途切れてしまうのだろうなという予感を携えつつも、その途切れた後を体験したものは誰もいない、というか、体験したら途切れたことにならない。体験できる死は、「私」以外の死でしかない。それは、肉親や親友などの身近な死かもしれないし、歴史時間を共有した著名人の死かもしれないし、全然知らない他人の死かもしれない。あるいは、人間ではないペットの死、さらには、あまり意識されることもないけれど、私たちの日々の生を食料等として支えている動植物たちの死、私たちの身体を構成している多様な寿命をもつ細胞たちの死、時として我々の命を脅かすけれども、多くの場合、知らないところで地球の生命過程の根底で重要な働きを担っている無数の微生物たちの死、あるいは、空間的時間的にはるかかなたではあるが、生命の構成物質の基礎を生成すると言われる天体の死など、そういう死を自覚の程度はさまざまだろうが、この「私」は体験しつづける。そして、私の思いとしては、その体験を通じて、「生」をいとおしみ、生きるための活動を尊重し、自己も他者もその時空内の存在を、とりたてた輝きはないものであったとしてもそれはそれとして、静かに愛していきたい。 |
妻の希望もあって小型犬を購入した。つぶらな瞳でこちらを見つめられると、ついこちらも見つめ返してしまう。この小さな身体を通して、見る世界、感じる世界はどんなものなのだろう。ささやかな命との新たな関わりが始まった。 |