(2019/07:発行(8月)) 「季報 唯物論研究」第148号 にて掲載 (特集 「世界の<今>を読む:この一冊」)

「レイ・カーツワイル『ポスト・ヒューマン誕生』」
(特異点は近い-----人類が生物を超越する時)  NHK出版 2007年
函数モデルとしての「人間+&」たちの適応生活

(Ray Kurzweil The Singularity is Near:When Humans Transcend Biology / Adaptive lives of "Human + &" as Function models)

          村山 章 (Murayama, Akira)       2019年7月 執筆
 NHKで、『AI育成お笑いバトル』という番組をやっていた。大喜利の基礎を仕込んだ人工知能に、千原ジュニア始めとする数名の出演者が、各自の個性をにじませた学習を施して、AI同士で、お笑いのお題に、回答を出させて対決させるという趣向の番組である。時々、「ん?」というのもあったが、概してなかなか気のきいた、結構笑える回答を出していて、唸らせるものがあった。これは面白いと評価され、かつそれぞれの芸人の「それらしさ」としても評価される膨大なお題と回答の事例から、「お笑いの法則性」のようなものを習得して、なまじ素人では敵わないような、気のきいた回答を出力する。単語の理解、文の解読というレベルをはるかに超えて、連想される事柄を、面白さの基準でひねりだしてくる。画像の解釈も、オブジェクトディテクション(対象取り出し)された画像部分の特徴をつかんで多岐に連想させて、はっとさせるような一言を出力する。こんな分野においてすら、人工知能は人間の能力を超えようとしているのか、と思わせられた。ただ、一方、そこであらためて気付かされたこともあった。でも、AI自身は、笑っていないよな、ということだ。お笑い芸人は、自身が笑ってしまわないように懸命に抑え込んで、ボケたりしているけれど、AIは、最適評価値を求める膨大な検索・計算処理をしているだけで、おかしがっているわけではない。笑わせることはできても、笑うことはできていない。もし、AIが自発的にジョークを交わして、互いに腹?を抱えて笑いあうようになったなら、それは、実にすごい技術だ(怖いけど)。ともかく、今のところ、笑う能力という点では、人間の方に分がありそうだ(と思いたい)。

 「世界の〈今〉」という特集テーマで、人工知能の問題を無視するのは、あまりにも「世界の〈今〉」に取り残されてしまうのでは、何か書かねば、と思って筆(キーボード)を取った次第だが、正直、荷が重い。本稿で取り上げる、レイ・カールワイルの本書は、それを支持するにせよ批判的立場に立つにせよ、話題の火付け役として大きな影響力を与えている。本書の原題に使われている「シンギュラリティ(技術的特異点)」という言葉は、独り歩きして、アニメのルパン三世にも出てくるくらい、普及している。  カールワイルは、シンセサイザーなどでの分野で実績をあげ現在はグーグル社に勤務する発明家・実業家で、数々の技術分野での未来予測を的中させて有名になっている。テクノロジーの進化というのは、単調な上昇をしていくものではなく、指数関数的な速度で成長していくもので、「収穫加速の法則」と彼は命名している。本書で頻出する「GNR」という略語は、三つのキーテクノロジー、G:遺伝学、N:ナノテクノロジー、R:ロボット工学を指していて、ここ数十年の内にそれらがそれぞれの分野で、かつ相互連関しながら、加速的に発展していって、2045年には、人工知能は全人類の知性を凌駕し、技術革新自身が、AIによって遂行されていって、地球史の大転換を迎えることになる。それが「シンギュラリティ(技術的特異点)」と呼ばれる。人間のサイボーグ化や人間の意識のコンピュータへのアップロード化なども進んで、機械対人間という対立図式もあまり意味をなさなくなってゆくらしい。

 「シンギュラリティ」説に懐疑的な意見は無論少なくない。特に、最前線で人工知能の開発に携わっている人の中からは、懐疑的な意見が多い。だが、それは、現時点の技術前提に囚われているからではないか、とする意見もある。私としては、本当はどうなのか、わからない。カールワイルの予測のいくつかは、多少の誤差はあっても的中するだろう。すでに的中しているものもある。そして、いくつかは、予想外の停滞をして的中しないかもしれない。それをとやかく論じられる判断力は私にはない。
 ただ、テクノロジーの加速的進化は、確かに、私の生きた短い時間の中でも、ひしひしと実感できる。それは、達成した技術成果は部品化され、それらを再利用する時間・コストは、それらを最初に作るのに要した時間・コストに比して格段に縮小されるところからくると思われる。部品化されたものは、その中がどのようになっているかは、配慮しなくてもいい。ブラックボックス化できるのだ。そして、それらの部品をさらに組み合わせた機構もまた部品化され、ブラックボックス化され、そしてこうしたことが、多方面で集積され、相互に流用される。こうしたことが果てしなく繰り返されていく。気付けば、私たちはブラックボックスの密林の中で生活している。
 数学では、ある入力に対して、それに何らかの変換を加えたものを出力する機能をもったボックスをFunction(関数/函数)と呼んでいて、その概念はプログラミング言語にも応用されている。(「関数」という訳語は、常用漢字にすべきという指導で定着したが、本稿の中では、もともと数学者が使っていた、函(はこ)をイメージした訳語「函数」の方がフィットするのでこちらを使用することにする。)ある機能が函数化されれば、その中がどのような仕組であるのかは、知らなくても利用できる。知っていてもいいが、忘れても、全く知らなくてもいい。あるいは、知っている役割はその函数の専門家に任せれば、分業化を推進できて、巨大なプロジェクトを構成していける。技術知は、函数化を媒介に加速的に進化してきているとみることもできるかもしれない。
 これまでのところ、この函数を設計し管理し改善してきたのは、人間だった。だが、技術的ニーズの進展は、これを人間だけに任せていたのでは間に合わないところにきてしまった。どんな函数を保持してそれをどう使うかは、機械が自動的に生成、判定できる仕組みが探求された。現在の第三次AIブームの立役者であるディープラーニング(深層学習)もその高度化した一事例であろう。その基礎理論のニューラルネットワークの研究は古くから進められていたが、昨今、にわかに数々の分野におけるその応用で著しい成果を出してきている背景には、計算処理能力の飛躍的向上、安価なメモリーの量産、各種センサー技術、音声や画像の解析技術、構文解析技術など、ベースになる多方面での技術的蓄積、そしてインターネットやGPS機器などを通じて膨大なビッグデータが安価に入手可能になったことなどがあるのだろう。グーグル社は、ディープラーニングのシステム構築を比較的手早くできるための部品ソフトを無償で提供している。函数を自動生成していける機能そのものがさらに函数化され普及している。そしてその使用ノウハウもまたAIが学習していって、・・・といったことが今後も進んで行くのだろう。
 自動生成された函数は、とてつもなく複雑で、人間には理解できない。一つ一つは、シンプルな論理的ステップかもしれないが、それが何十万ステップもあったのでは、人間はそれを示されて「なるほど」なんて思うことはできない。エンジニアは、函数生成していく普遍的・抽象的理論にアクセスするのが精いっぱいで、具体的に実行される個々の函数をすべて把握しきることなど無理になっている。そもそも、なるほどと「納得」することは、ある種の人間の心理的安定状態を得ることであって、真理に到達できているかどうかとは直接には関係のないことだ。人は、間違った言説でも納得するし、正しい情報や理論がなかなか納得できないでいる事例も少なくない。どうしたら、人間たちに納得してもらえる説明を出力できるかを機械学習させていくことが、これからのAIの課題の一つになっていくのだろうか。(それはそれで、なんか、納得いかなかったりするのだが。)

 ところで、ひるがえって、反省してみると、函数モデルに囲まれた世界で生きるということは、何もテクノロジーが発達した昨今ならではのことでもなく、たとえば「あの人は、おだてると、一所懸命に仕事する」などというのも、対象を「函」にみたてて入力と出力の関係に着目した認識のあり方だと拡張して解釈すれば、これも函数モデルの適用のひとつと考えられるわけで、なにも数式を使った形式のみが函数ではない。そもそも人は、他者や自然や社会を行為と効果との連関で捉えているだけで、その中身がどうなっているかについては、いちいち頓着しない。函の中が気になる時は、それが正常に機能していなかったり、みずから作成しなくてはならなかったりした場合であって、特別に好奇心に取りつかれたりでもしなければ、分業社会の中では専門家に委ねて無関心になる。具体的に生きていくとはそういうことで、そうでしかありえない。だから、ニューロンも、個人も、工場も、政治体制も、「人民」も、それぞれの立場から、函数としてたちあらわれ、扱われる。その数々の函数たちの中に、ロボットも加わってきた、ただそれだけのことにすぎない。
 外界を函数モデルと捉えながら適応していく人間たちの表象意識は、論理的であれ、感情的であれ、元来、機械的なのだ。もしかすると、単純な機械性を乗り越えつつある機械に機械的な人間の意識がついて行けなくなってきているのが昨今の状況なのかもしれない。人の心の機械性は、とりわけ、競争とか、戦争とか、虐待とか、差別とかの場面では、顕著に単純化された形態で駆動する。この先、「高度な慈愛」が実装された機械たちによって、この単純機械的な意識たちを諫めてもらう日がやってくるのだろうか。

 でも、函の中身は存在しているのだ。それを、外部から正確に把握しきることは、論理的、現実的に無理だとしても。「私」は多くの他者から、「函」として見られ扱われていて、同様のことを私も他者に施している以上、やむなきことなのだが、それでも、函の中身としての私は確かに存在している。ふと気づいたら、存在していたのだ。そんな具合に、ふと気づいたら、「私」が存在していたという自覚を持つ存在が、蛋白質系とは異なる「肉体」に宿る日は近いのか、それはよくわからないが、「函」の中身の存在を忘れないで欲しいと願うならば、外見の形態は何であれ、「函」の中身の存在を信じて思いやることを忘れないでおくことが、まずは前提なのかもしれない。
 カールワイルは、身体を機械に置き換えて、あるいは自己意識を機械にアップロードして、不老長寿を夢見ているみたいだが、肝心なことは、「函」をどうするかではなくて、「函」の中身への思いやり空間をどう育てていくかなのではないだろうか。それは、願わくは、おだやかな笑いなどにつつまれた空間であってほしいと思うばかりである。


   2019年07月


戻る