(2016/11:発行(12月)) 「季報 唯物論研究」第137号 にて掲載 (特集 「今、思想に問われているもの:思想の現在、思想家たちの現在」)

「思考と思想について考える」

(To Think about Thinking and Thought)

          村山 章 (Murayama, Akira)       2016年10月 執筆

            1.

 オーギュスト・ロダン(1840-1917)の代表作と言えば、『考える人』が有名だ。実はこれは、ダンテの『神曲』を題材に制作され、『地獄の門』と名付けられた作品(ある美術館の門用として企画された)の上部にあるパーツであり、『考える人』という作品名は、鋳造職人リュディエによるものであるらしい(Wikipedia)。ところで、「考える人」は、フランス語で「Le Penseur」、ドイツ語で「Der Denker」、英語で「The Thinker」で、これらの語は、「思想家」とも訳される。だが、このブロンズ像の題名を「思想家」と訳されるとなんだか違和感を覚えてしまう。
 「考える(考えた)こと」に相当する語は、日本語では、「思考」「思想」「思惟」・・・といくつかあって、他の言語でも複数の単語があったり、動詞の変化形や修飾語によって区別されたりで、事情は言語ごとに異なるだろう。同じような意味を表す言葉でも、いったん違う単語や表現を持ってしまうと、言語文化は、使い分けをするようになる。私は、日本語についてしか語れないが、「思考」と「思想」は、明らかに使い分けられている。本稿ではこの二つの語に着目してその使われ方について省みてみる。

            2.

 およそ、「思想」たるもの、人間たちの「思考」(の産物等)であって、思考が媒介されない思想というものを思い浮かべるのは困難だ。だが、すべての「思考」(の産物等)が「思想」と呼ばれるわけではなく、その意味で、「思想」は「思考」の部分集合である。「思想」とは何かについて直接言及するのは、難しそうだから、まず、どんな「思考」は、「思想」とみなされないのかについて振り返ってみよう。
 人間は、とにかく考えることが大好きな生物である。四六時中何か考えている。睡眠中も脳は活発に活動しているらしいから、それも含めれば、考えていない時などない。「考えても仕方がないから何も考えまい」などと念じている時など、フル回転で考えている。  どの銘柄をどのタイミングでどれだけ買い、そして売るべきか、投資家たちは懸命に考えている。あるいは、その日の買い物を二千円以内に収めるには、何を買って何を諦めるべきかスーパーの食品売り場で懸命に考えている人たちもいる。何も考えなくていい職場なんてまずないし、もし退屈していればそれはそれなりにこんな職場にい続けていいものかなどと考えるし、恋愛中は自分や相手やライバルのことを考えまくるし、家庭に入ればそれぞれの立場で色々考える。攻略法を熱心に考えているゲーマーたちがいる一方で、過酷な思考労働を日夜繰り広げて担当した課題に取り組むゲーム制作の人たちがいる。みな、懸命に考え考え考え続けている。しかし、彼らがそれをもって思想家と呼ばれることはまずはない。
 思考活動ということであれば、何も人間に限ったものではあるまい。タコは脊椎動物の脳に相当する神経節をそれぞれの足用と全体統御用、計九つ持っていて、高度な学習能力を備え、好奇心も旺盛、捕食や外敵から逃れるためにかなり知的な行動をとることが観察されている。だがタコは子供が孵る時にはその生涯を閉じるので、自分が習得した知識を子孫に伝えることはできず、群れとしての文化も形成しない。単独者として生きる彼らが「思想」を持って主義主張をするようになるにはまだ進化が足りていない。
 進化と言えば、コンピュータは、ほんの数十年でめざましい進化を遂げ続けている。人間の思考のみがなせると思われてきた分野を、次々に絶大なる速さと正確さと作業量で凌駕してきている。人工知能は、クイズ王になり、チェスや将棋や囲碁ではトップレベルとの対戦で勝ち、車を運転し、人の表情を判別してやさしく話しかけることすらできるようになってきている。だが、「思想家」とよばれる人工知能は出現していない、今のところ。
 少なくとも、優れた情報処理能力があることと、思考が思想たりうることとは直接関係はなさそうに思われる。また個別具体的な思考はそれがいかにたいそうなものであっても思想にはならない。では、一般的普遍性をもった言明であれば、それは思想なのだろうか。

            3.

 「人間は考える葦である」や「クレオパトラの鼻がもし、・・・」で有名なブレーズ・パスカル(1623-1662)のパンセ(Pensées)、その書名(省略名)が「思想」とも「思考」とも訳されず、フランス語のカタカナ表記にされた事情は分からないが、これは、私にとっては、ほぼ最初に手にした「思想書」の類だったように思う。これは、概ね、キリスト教の擁護を意図して書きためた遺稿集である。キリスト教についてはほとんど関心のない環境で育った私にとって信仰のことは全くピンとこなかったが、デカルト批判が実に痛快で面白いと感じた記憶がある。理性に絶大なる信頼を寄せるデカルトらの合理主義思想に対して、本当にそうかと疑問を投げかける。その立論の仕方は神学教義と言うより、リアリズムに近く、故に信仰にまるで無関心な私の心をも響かせるところが少なくなかった。
 そのパスカルは、数学や自然哲学(物理学)で、デカルトに勝るとも劣らぬ多大な功績を残した。計算機科学の先駆者でもある。気圧の単位でパスカルの名を知る人の方がパンセを知る人より多いだろう。ブレーキも油圧式重機も、「パスカルの原理」の応用である。だが、この装置はパスカルの思想に基づいて作られていますと言われることはない。幾何学の問題が解かれる時も、それはユークリッドの公理に基づいてとは言われても、ユークリッドの思想に基づいてとはまず言われない。議論の余地が(ほとんど)無くなってしまった分野に対しては、大いなる普遍的妥当性を備えていても「思想」という語は使われないのだ。
 コンピュータソフトの開発現場で、「今回は、○○の設計思想に基づいて」などというフレーズが使われることはよくあるが、その場合は、「他にもやり方はあるが、」という意味が裏にある。人間たちが考えたものではあっても、もはや選択の余地のないような事柄には、「思想」という語は適用されにくいのだ。

            4.

 それ故か、皆が空気のように当然のものとして使っている思考の様式とか、あり方とかは、思想とは認識されにくい。それもまた思想ではないかと誰かが暴いたりすると、その人こそ、危険な思想を持っていると訝しがられる。なるほど、思想とは、元来生まれながらにして危険な香りを放つものなのかもしれない。現に、「危険思想」という言葉は使われても「安全思想」は聞いたことがない。「安全」は運転や靴にかかってこそありがたいわけで、思想が安全だと言われたら、なんだかそれで魅力が失せてしまいそうだ。かくして魅惑的な危険物は、できればそれを共有して磨き上げていける仲間が欲しいと思われ、仲間を増やす活動も活発化し、反発、抵抗、無視、思い入れなどの各々の思考たちの反応を媒介しつつも、やがて思想の波動となって人々を揺さ振っていく。そして気づくといつしか仲間内でその思想の何がしかに異を唱える者たちが危険視されるようになっている。「危険」という香りが絶えることのない思想の世界。
 一方、思想なんて特に関心もなく、日々の生活の中で様々な「思考」を続ける大多数の人々にとって、最大の関心事は、やはり安心安全な生活の継続であろう。だがそんな危険を避けたいだけの素朴な者たちにも、思想の波動がやってきて選択を迫られたりすることも起きる。そんな時は、どう選択したら安心安全でいられるかと人々は思考する。中にはそこで目立って地位を固めようと思考する者も現れる。思想の選択の基準は教義の論理的整合性ではない。大勢を納得させられるという程度の論理的整合性なら、いくらだって後付けで創作可能だ。それよりも大切な人たちの生活を守るためにはどんな思想に与しておけば安心安全かが、生活しながら具体的に思考する人々にとっては重要関心事であったりする。

            5.

 残酷で皮肉な人間たちの歴史の中で、人々の真の幸福を希求して試みられたはずのあまたの思想の波動が、人々の安心安全をずたずたにしてしまった少なからぬ事例を顧みたりすると、「思想」なるものに消極的でいたくなる。
 もっとも、今は、前世紀までよく見られた、ある権威ある大思想家や組織が大衆を先導し、といったスタイルはもう時代遅れなのか、哲学者たちは専門領域に籠る一方で、誰しもがネットなどのメディアで呟くように気軽に思考/思想を発信出来るようになり、思想の波動の波形は、幾多の周波数帯で幾重にも重なり、安直な誹謗、蔑みなどから、常人には理解困難な抽象度の高い言明まで、幅広くかつ小刻みに波打ち、どちらを向いていたら安心なのかも分からなくなっている。それはそれで健全なあり方の一つなのかもしれないが。

 今一度確認しておこう。人間は考えることの大好きな生物である。だから、思考することと生活することとは一体のものであり、しかも人間は高度に社会的に思考を相互に発信し影響し合って生きていくしかない存在である。さらにここ数百年で築き上げられてきた科学技術文明や経済システムは、素朴な慣習などに寄り添っているだけでは生活を持続可能にできないところに人々を追いやった。それも、最も素朴な生活者が地球温暖化の危機等の最前線に立たされていたりする。
 だから、少なくとも現代の思想にとって、地球規模の生活の吟味という課題は避けられまい。たとえ、思想が解決の牽引車たりえるなんて幻想的思想にすぎないとしても、課題は課題である。でも、日々の生活の中で具体的に遂行される人間たちの各々の思考たちが、それ自体でリアルな歴史の構成要素になっているということを忘れないでおきたいものだ。
 もとより、思想とは何かについて統括的、綜合的に探求しようなどの意図は本稿にはないわけなのだが、思想なるものを、完成され、何か特別に尊く、守るべきある種の真髄のように捉える思考パターン、それもありかとは思うけれど、生活の中で出会い、場合によっては発信したりもする、波とか風とかに喩えられそうな何かと捉える思考パターンもあっていいのではないか、そんな私の思いを提示してみたかった。風にはそよ風だってあることなのだし。


   2016年10月


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