(2014/11:発行(11月)) 「季報 唯物論研究」第129号 にて掲載 (特集 「私の映画この一本」)

「小泉堯史『博士の愛した数式』2006年」

("The Housekeeper and the Professor" directed by Takashi Koizumi (2006))

          村山 章 (Murayama, Akira)             2014年10月 執筆
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1.『博士の愛した数式』


 映画の原作は、同名の小川洋子の小説(新潮社2003)である。
 シングルマザーのある家政婦(深津絵里)が派遣された先は、交通事故により、記憶が80分しか持たない前向性健忘の障害を持つ、数論専門の元大学教授(寺尾聰)の家で、彼女は、毎回初対面状態から始めなくてはならない。ある時、彼女に十歳の息子がいることを知ったその「博士」は、子供を一人で放置すべきでない、家に連れてくるようにと言う。映画では、博士から頭が平らなところからルート(√)と呼ばれたその少年(齋藤隆成)が成人して数学教師(吉岡秀隆)となり、あるクラスの最初の授業でその博士の思い出を語るという設定で描かれる。
 博士は、靴のサイズや年齢など、数に関して質問をし、それが数論的に興味深いものだったりすると、その話題で盛り上げる。新たに獲得した記憶は保持できない彼が、人とのコミュニケーションを図るために編み出した独特のやり方であった。上着に張付けたメモで、自分の障害を日々知らされる博士。それを気遣いつつ、なんとか充実した日々を与えようと、博士との数をめぐる対話に真摯に向き合いつつ、逆に充実した日々を与えられていく親子。地味なストーリーではあるが、過ぎゆく季節の光線のきらめきの中で、じんわりとした人間的暖かみが伝わる作品である。
 
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2.オイラーの公式

<オイラーの等式>
\(e^{i\pi}+1=0\) (式1・a)
\(e^{i\pi}=-1\) (式1・b)
<オイラーの公式>
\(e^{i\theta}=\cos\theta+i\sin\theta\) (式2)
\(\theta=\pi\)の場合、(式2)に、
\(\cos\pi=-1, \sin\pi=0\)
を代入して、(式1・b)が得られる。

 作品の題名でもあり、物語のクライマックスで決定的に重要な役割を果たしている数式は、オイラーの公式(等式)」と呼ばれる。(式1・a)または、(式1・b)で、表され、一般式は(式2)である。不思議な式だ。ある数を虚数回、掛けるってどういうこと?それが三角関数とどうして結びつくの?小説では、「予期せぬ宙から\(\pi\)が\(e\)の元に舞い下り、恥ずかしがり屋の\(i\)と握手する。」なんてすごい表現をしていたし、映画ではネイピア数\(e\)(=\(2.71828182845904523536028...\))を螺旋状に書いた円盤を黒板に貼って回してみたりと、ユニークな表現を試みていたけれど、ますますわけがわからない。
 私は、かねてから、「認識の基底層は、区別・非区別と対応付けである」と思っている。何かが分かった状態というのは、すでに分かっているものに対応付けができた状態だと思う。これは理系も文系も関係ない。ただ、いわゆる理数系の発想では、この対応付けを、厳密な基礎概念の積み上げを媒介して堅牢に仕上げないと気持ち良くないのだろう。しかし、人は何かと忙しい。もっと手短にそれが何なのか言ってもらえないかと要望される。
 私なりに考えてみた。オイラーの公式とは、一言で言うと、分度器と定規の機能を併せ持って他にも機能満載の、超便利ツールなのである。この文房具は、複素平面で使われる。
 複素平面(ガウス平面)とは何か?分数や小数を学習してきている平均的現代人は、「数とは、連続した数直線上の一点を表している」という論理モデルを素直に受け入れているが、大昔からそうだったわけではない。そんな直線が物質的にどこかに存在しているわけではないし、羊の頭数のイメージしか数の概念に対応付けできなかった時代もあったのだ。一方、理工系のある種のフロンティアで活動している人たちは、「数とは、連続した平面上の一点を表している」という複素数の論理モデルの方がしっくりくるという所に立っている。量子論がそれを強く要求しているし、波動現象などを扱っている人たちは、複素数のモデルを採用して大いに助かっている。つまり、実数直線に垂直な虚数方向にも数たちは散らばっているというイメージがリアルなモデルとして体験され続けているのだ。
図形を表示するには、canvasタグをサポートしたブラウザが必要です。
 オイラーの公式(式2)の左辺、「\(e^{i\theta}\)」とは何か?それは複素平面での方向指示器なのである。これは半径が1の円周上で、円弧の長さが\(\theta\)に至った点を表していて、だから\(\theta\)が\(\pi\)だと、ちょうど半円周長で、実数の-1の位置に来る。(図1)それで、「\(e^{i\pi}\)」は\(-1\)なのだ。方向指示器を180度回転させたわけだ。一般に任意の複素数は、「\(r e^{i\theta}\)」で表現される。\(\theta\)の方角に、原点からの距離が\(r\)の複素数が表現されている。
 一方、右辺の三角関数の式は何かというと、「斜め→横縦変換装置」である。これは、左辺の方向指示器が指す単位円上の複素数の実数成分虚数成分を求めるものである。
 ところで、オイラーの公式、何故、左辺と右辺が等号で結ばれえるのか、今の説明ではわからない。微積分学で、テイラー級数展開と呼ばれる手法があって、それを、両辺に適用させると、合致するのだ。微分が、虚数を媒介に、指数関数と三角関数を結び付けるのである。で、最後に、その指数関数の底、\(e\)ってなんだ?が疑問として残る。
 「\(y=e^{x}\)」という関数は実は特別な性質があって、微分しても形が変わらない。それを可能にする定数がネイピア数\(e\)で、\(2.7\)のあと無限に小数が続く無理数である。指数関数の底はこれを使ってこそ、三角関数と手を結ぶことができるのだ。ちなみに、指数関数の定義は、「結果の積が和の結果になるという指数法則(\(m\)乗×\(n\)乗=(\(m\)+\(n\))乗)を満たす関数」と昇華されていて、「虚数回掛ける」なんて実は誰もしていないのだ。
 オイラーの公式は、複素数を指数関数でも三角関数でも表現できることを示し、この両者には便利な定理たちが膨大に蓄積されていて、様々な問題解決に道を開いた。だから超便利ツールなのであり、至宝とか宝石とかと呼ばれているわけである。
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3.時空を超えた数学的普遍性と局所的時空に生きる生身の生活者


  再度、『博士の愛した数式』の話に戻るけれど、博士は、例えば完全数をこよなく愛した。自身を除く約数の総和が自身と同じになる数、例えば、6、28、496、などである。庶民感覚からすると、それがどうした?であろう。むしろ、ゾロ目の数とか語呂合わせで何かを暗示できたりする数の方に興味が向く。だが、数学者はその手の数には関心がない。ローカルだからだ。語呂合わせは、文化的にとてもローカルだし、ゾロ目は十進数が前提で、それはたまたま地球で進化した脊椎動物の大多数が五本指だったことに由来しているにすぎないからローカルだ。しかし、完全数は、何進数で表現しようが全宇宙的に完全だ。
 博士は、素数が大好きだ。今月の売上が素数だったと言うことで大喜びする経営者は、もしいたら、その経営大丈夫か?と心配になるが、数学者は、素数が大好きで、飲み会の時、店の下駄箱の番号は、素数から埋るらしい。(1)素数も、何進数かには依存しない宇宙的普遍性があるわけだが、単にそれだけではない。一見、その分布は大変不規則なようで、実は奥深いところで隠れた法則性があるかもしれないということで、オイラーやガウスの長年の研究を受け継いで、リーマンが打ち立てたある未証明の法則性(不思議なことに素数の問題なのに複素数が絡んでいる)の予想があって、百万ドルの懸賞金もさることながら、それはまた、原子核物理学でのある法則性とも符合していて宇宙の根源に迫れるかもしれないようなテーマで数学者のロマンを大きく掻き立てるのである。
 ところで、博士は、阪神タイガースのファンである。阪神タイガースのファンであることは、宇宙的普遍性どころか、日本的普遍性すらない。関西地域に限っても反例続出だ。江夏の背番号は完全数28だけれども、タイガースのある期間のスターであっても、絶対不敗の完全なるプレイヤーだったわけではない。だが、だからこそ、ルート少年と仲良しになれた。だからこそ、この小説(映画)は、じんわり感を我々にもたらしてくれる。永遠不変の真理を探究する博士は人参が嫌いで食べ残す。主人公の家政婦は、なんとか人参をわからないように食べさせようと料理を工夫する。だが博士はルート少年には「嫌いなものを残すようではいけないよ」なんて語ったりする。矛盾が大嫌いな博士なはずなのに。そんなさりげない日常のやりとりが刹那刹那を構成していっているというのもまた普遍的真実のひとつの形であろう。これは数学という形式では表現されにくい類の真実だが、人間は宗教とか文学とかの別形式でしっかり把握してきている。抽象的であることと具体的であることとは、渾然一体となって我々を支えているのである。

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   2014年10月


(註)
(1)
森田真生氏が「数学の演奏会」という講演会で語っていた。彼は「独立研究者」として、大学の外でユニークな数学の啓蒙活動を行っている。多変数解析関数論の岡潔(1901-1978)に惚れこんでいる。

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