(2002/11) 「季報 唯物論研究」第82号 にて掲載

「21世紀、哲学的苦悶の存在理由」

(21st Century, the Raison d'être of Philosophical Agony)

          村山 章 (Murayama, Akira)             2002年9月 執筆

・思想史再現シミュレーション

 思うに、我々は、人間の思想史について、(他の歴史もそうだが、)一例しか知らない。この唯一の歴史しか知らない。それなのに、思想というものについて何か一般的なことが語れるのだろうか。
 これは、あくまで仮定の話なのだが、もし、サイバー空間上に、環境認識能力、自己認識能力、環境&自己変革能力を持ち、相互に関与し合える、組織された、充分に発達した人工有機体に、思想史を再現させるようなシミュレーションを行ったらどうなるだろうか。もちろん、サイバー空間は、多数用意して、所与の条件を色々変化させて調べてみる。
 そこで、宗教に相当するようなものは、発生するだろうか、唯物論とか観念論とかに相当するようなものは発生するだろうか。「何故、自分は実存しているのだろう」なんて「悩む」ことに対応するような現象が生じたら、大いに注目すべきだ。宗教や哲学が発生するメカニズムを科学的に解明する糸口になるかもしれない。
 もちろん、二十一世紀初頭の原始的なコンピュータ技術を前提にした議論ではない。この段階では、人工知能すらまともに作れない。そもそも、社会のない所に知能を作ろうとしたのが失敗の元だったのかも。一九八〇年代の人工知能ブームが去って、それに代わって今日まで盛んに研究されている分野に、人工生命というのがある。ある種のアルゴリズムを使って遺伝や自然淘汰の仕組みを実現し、生命の進化過程をシミュレーションしている。ここに至って、ソフトウェアは、ついに、設計・製造の対象ではなく、発生・進化・死滅するもの、もしくは培養・育成されるものになった。人工的な「自然過程」である。このような「人工自然」は、将来、火星など、人間によるメンテナンスが困難な地域におけるシステムとして応用が期待されている。が、非・蛋白質-核酸系の生命は、まだ、端緒についたばかりだ。カンブリア紀を迎えるまでには、まだまだ時間がかかるだろう。しかし、充分に複雑に絡み合った系では、自己組織化していく能力が創発する。遠い(orそれほど遠くもない?)将来において、思想史再現シミュレーションが出来る日が絶対に来ないと誰が断言できようか。
 「宗教」や「哲学」や「科学」までも獲得した、充分に発達した人工有機体(被造物)は、ある時、こう「思う」かもしれない。「そもそも、なぜ、宗教や哲学や科学というものが起きるのだろう。それを知るためには、やはり、シミュレーションしてみるしかないか。そこで、『何故、自分は実存しているのだろう』なんて『悩む』ものが現れたら、大いに注目すべきだ。」と。
 ん?待てよ、天にましますわれらが神(or神々)は、ひょっとして自らの存在意義を確かめたくてシミュレーションされておられるのでは?
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・唯物論という意識形態

 SFじみた話になってしまったが、以上のような考え方、これは、どうしようもないくらいに唯物論的だ。(神(or神々)の存在を信じているところは別として?)
 しかし、こんなどうしようもない唯物論でも、それ自体は、物質ではない。思想である。それが、私によって思考されたものであるという属性は、拭い去れない。
 思考、意識については、今日、大脳の機能として、解き明かされる部分が増加の一途をたどって来ている。シナプス結合も、ドーパミンやノルアドレナリン等の脳内ホルモンも現代人の常識である。スーパーでは、DHAの標識が、魚肉ソーセージの購買意欲をそそり、魂の不滅を信じている人でも、子供には、頭がよくなるために魚を食べなさいと教え、憂鬱なのはセルトニンが不足しているからだと、薬局に足を運ぶ。こういう「科学的知識」を携えて、そういう知識は海馬がどうこうとかという知識も携えて、現代人は生活しているわけだが、知識はやはり知識であり、ある種の言語構造(シンタクスやセマンティクス)の中で、組織化された記号群である、という知識も一方では持つことになるわけなのだが、どうあがいても、純然たる知識内容そのものなどはどこにもないわけで、それは、つまるところ、この私の知識、この私の思考という形でしか現れようのないものである。私の意識という形態、これはどこまでいっても、べったりと付きまとう。唯物論も私の意識形態のある種のあり方の一つにすぎない。
 そもそも、知識の内容なんて、どこまで信じていいものなのか、何が真かなんて、時代とともにどんどん変わっていくではないか。私は、たまたま二十世紀末から二十一世紀初頭にかけての、先進地域に生きて、それ相応の科学的知識の恩恵に浴しているわけだけれど、もし、家族も友人も先生も、「森羅万象これすべて妖怪の仕業なり」という世界観で生活しているような時代なり地域なりで、生まれ育ったとしたら、たとえ私の科学的感性が天才的にすぐれていたとしても、独力で、万有引力の法則やボイル・シャルルの法則や不確定性原理やDNAにたどり着く事など絶対に不可能だ。果たして一生をかけて、雷が雷神の仕業ではないことを証明できるかどうか。
 不可知論というのは、絶対的な知の限界を固定的に定めてしまうところで批判されるわけで、ある特定の時代と地域を限定すれば、我々は、一般的に不可知なのだ。そして、知の限界があるかどうかということも含めて不可知なのだ。だからと言って、無限の将来の絶対的知について語るなんて意味があるのか。それとも、絶対知を持つ絶対者を想定して論理的短絡に安寧を求めるのか。

・デカルトの「cogito」

 なぜ、「知」にかくもこだわる。
 デカルトの「cogito」について考えてみよう。なぜに、「我有り」の理由が、同じく一人称の動詞である「我食う」や、「我歌う」ではない「我思う(考える)」でなくてはならないのかが重要だ。「我食う」も、「我歌う」も、「疑う」という否定的思考の対象になるが、「我思う(考える)」は否定的思考の対象にしたら、そう思考する事自体が何なのかという自己撞着に陥る。往々にして、自己言及的矛盾は、否定的結論に導くものだが、デカルトはこれを積極的に肯定的な認定と価値観に昇華した。だから哲学史の中で燦然と輝いている。だが、これは、哲学が理論的思考という言語形式の洞窟から一歩も出ることが出来ないことの告白でもあるように私には思われてならない。もし、哲学が「におい」の体系で成立するものであったなら、デカルトはおそらく「我嗅ぐ、故に我有り」という意味の「におい」を残したに相違あるまい。そして後に、天才的嗅覚を持ったウィトゲンシュタインは、においゲーム一元論という分析臭を世に放つことになるだろう。
 なんか、鼻をつまみたくなりそうな展開になってきた。現実に話を戻すと、我々はにおいではなく、言語の世界に閉じ込められている。それも意図してその世界に身を投じたわけではない。気がついたら、私は言葉を使っていたのだ。所定の意味、論理を当然のごとくのように使っていた。それらは所定の文脈の中に置かれ、そこに自分というやつが、気がついたら存在していた。この「文脈」というのが、場合によっては、とんでもなく残酷なものだったりもする。
 確かに、私にとって世界はどこまでいっても、私の認識、私の思考、私の言語意識という属性を捨てきれないのだが、それでも、私の意識なるものを根源的な存在として据える気になれない理由は、その具体性にあると思う。人生は厭になるくらい具体的だ。我こそは一般的、普遍的、世界標準の人生を生きていると胸を張れる人がいたら是非名乗り出てもらいたいものだ。私の思考を唯物論的な方向に押しやる根源的動因は、たぶん、「なんで、私は、こんなさえない私なの」という恨み辛みであろう。

・「愛」について、「人間たち」について

 そして、「愛」はこの具体性の上に成り立っていると思っている。私は、神とか、大自然とか宇宙とかへの愛なんて理解できない。悟りの境地にはほど遠い私は、具体的で、個別的で、執着心に満ち満ちた嫉妬や怨恨と隣り合わせの愛しか理解できない。
 人類愛だって信じられない。人民のためとか、万国の労働者のためとか、胡散臭すぎる、もうよしてくれだ。地球を愛する?嘘でしょ。自業自得で自分たちの住処が大変な事になってうろたえているにすぎないことを美化するべきでない。あの山この川なら愛せても、道端に咲く花なら愛せても、地球はなかなか愛せるものじゃない。ほほを摺り寄せるには大きすぎる。(それとも、人類のほほは、地球大になってしまったのか?)とにかく、抽象的な普遍性に対する愛なんて絶対嘘だと思う。
 むしろ、具体的、個別的であることこそが、普遍的であったりもする。だから、「人民」のための英雄的工作活動は論外として、アジア地域の安定云々よりも、数にしてわずかな拉致家族の悲劇に、誰もが注目し、憤りをぶつける。
 我々は、世界と実践的に関わる場合、常に具体的な状況対応をする。私の職業であるSE(システムエンジニア)に例をとれば、例えば、何か、トラブルが発生した場合、それがプログラムの修正ミスなのか、切替えミスなのか、設計ミスなのか、通信障害が起きているのか、インフラの仕組みにバグがあるのか、あるいは、ユーザーとの要件検討時に勘違いがあったのか等、速やかに状況を分析・判断し、しかるべき対応策を、応急処置と恒久的対処に分けて考え、関連部署には至急連絡や指示をして等々のことが要求される。ここでは、コンピュータは究極的には、ビット演算で動いているとか、原理的にはチューリングマシンに還元できるなんて知識は何の役にも立たない。だが場合によってはそのレベルで考えなくてはならないこともありうる。(まず、ないが。) 具体的状況とは、様々な存在のレベルが錯綜する現場である。もし、トラブルの根本原因が、予算不足による開発工数の削りこみにあるとすれば、経済的・政治的問題が顔を出すし、(こちらは、ありがち) もし、SEが引き続くトラブルで、過労で倒れたりとかすれば、医学上の問題や、厚生上の問題もが顔を出す。
 だから、世界の階層的な構造を論理的に正しく把握していなくては、世界への具体的アプローチは不可能である。そこで我々にとってもっとも有効な手段は言語世界に客観的な構造モデルを再構築しておくことなのである。これは中途半端であってはならない。客観主義は、一度は徹底的な形で定立しておかなければ、砂上の楼閣になってしまうように思える。だから、人間主義も超えなくてはならない。人間が自然の対極に位置しているように捉えるのは不自然だ。人間も自然だ。恐竜の森林食いつくしや、太古のバクテリアによる大気組成の変革は自然現象だが、今の人間の環境破壊は自然史の過程ではないとどうして言えるのか。さらには環境破壊への反省に基づく人間のアクションとて自然現象の一つではないのか。このくらいの客観主義を一度は定立しておきたいのだ。その上で、「人間たち」なるものに立ち返ってみたい。
 「人間たち」について。これは、果たして出発点なのだろうか。なぜ、「人間たち」なのか。なぜ、「我が家の者たち」とか「日本人たち」でなく「人間たち」なのか。なぜ、「哺乳動物たち」、とか「脊椎動物たち」でなく「人間たち」なのか。
 確かに、国際交流が庶民レベルで日常化している今日、いまさら「日本人たち」でもないだろうということだが、敵国や植民地の人たちは「人間」扱いされてなかった時代は、ほんの半世紀ほど前のことだし、今だってかの地では...なんて思うと、「人間たち」というくくりが、それほど自明に簡単に与えられていることとも思えない。
 確かに、脊椎動物が一致団結して、節足動物と対峙するようなことはなかろうが、「人間たち」というくくりが、自然界の階層分類構造の中で特別扱いされるべき理由を自然界そのものに求めるのには無理がある。「人間たち」は単なる生物学的分類概念ではない。
 「人間たち」は、片や客観主義からは導けない「この私」の実存と絡んでおり、片や歴史的な所産としての概念でもあり、こんな複雑で曖昧模糊とした概念を、果たして哲学的出発点におけるのだろうか。そもそも、哲学的出発点とは何なのか?...という議論こそ哲学的出発点におくべきなのか。
 それでも、「人間たち」なのだ、という答えを一方で私は期待してもいる。そこしかないのかとも思ったりしている。だが、素直に受けいれられず、得るに得られぬ哲学的論理を求めてもがいている。私は、「唯物論」とか「観念論」とかを、こんな思考過程におけるベクトルとして機能させたい。もうこれを単純な思想分類のタグとして使うのはやめにしたい。そして、颯爽と哲学を揚棄するなんてできなくて、ずるずると未練がましくこれを引きずっていたい。


   2002年9月


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