(2000/02) 「季報 唯物論研究」第71号 にて掲載

「身体的スケールからの爆発的乖離」

          村山 章 (Murayama, Akira)             2000年2月 執筆

1.はじめに

 西暦2000年、二十世紀もいよいよ最後の年になった。もっとも、今が世紀の変わり目にいるという意識は、言うまでもなく、近代西欧の世界支配が、西暦を世界史の基準座標系においたことがもたらしたにすぎないことであり、少なくとも、百年前は、「世紀末」とか「新世紀」とかは、多くの非西欧地域において、「西欧風に言えば」という前置きが必要な観念であり、限られた知識人以外、殆ど無縁でありえたはずである。今でも、イスラム世界や中国の内陸部を始めとして、西暦が当たり前ではない地域は数多く存在している。
 確かに、コンピュータの2000年問題は世界共通の話題であり、千年紀の変わり目を迎えることが、世界各地で当たり前のように祝福されている。だが、世界全体として迎えられる「世紀末」や「新世紀」は、今回が始めてであるとは言えないだろうか。
 裏返せば、今は、時を刻む基準のディファクトスタンダードが、空気のように存在していなくてはならないほど、世界の一体化が、庶民レベルにまでいきわたっているということである。「キリスト教」や西欧のヘゲモニー問題などは、さしたる重要事ではなくなってしまった。

 ところで、時の刻みの表現は、いつを起点に置くかということだけに尽きるものではない。どのような単位で時間を計るか、さらに言えば、数値をどのような基数で表現するかによっても様相はいくらでも変わりうる。イエスの生誕と思いこまれていた年をたとえ絶対的な起点と決めたとしても、今が、ちょうどの変わり目であるという絶対性はないのだ。一年は、太陽系における単なる地球の公転周期にすぎない。宇宙全体からすれば、ローカルな時間単位である。そして、十進数という割り切れる数が少なくて比較的不便な基数法は、たまたま、人間の手の指の本数が十本だったから採用されたにすぎない。もし、二進数とか十六進数とかを使って年数を表現していたら、百年とか千年という半端な単位よりも256年とか、1024年の方がきりがいいわけだから、世紀の変わり目は今ではないはずだ。
 とにかく、「今」が世紀の変わり目であることそれ自体が、時間表現における歴史的産物の偶然的結果である。だが、その歴史性ないし偶然性をキリスト教や西欧列強の支配した近代史にのみ還元するのも正確ではない。これは、太陽系の成立過程も、人体に至る生物進化の過程も関与した、自然史と文化史と政治史とのアンサンブルなのだ。そしてここに「世紀の変わり目」に対する個人史、家族史、民族史等への思いが重層的に重ねられていって、「今」、多くのことが思い起こされ、語られている。
 では、百年という時間単位についてはどうなのか。十進数のことは、まあいいとして、「世紀」という括りが何故、十年でもなく千年でもない百年なのか。この長さは、およそ人間の寿命の限界に近い値であり、人間の三~四世代分くらいが身を置ける長さであり、従って、個人史、家族史を重ねて具体的に人間の生き様を思い描くことの可能な時間の単位である。すなわち、「世紀」というのは、人間の寿命を基礎にした、身体的尺度なのだと言えるだろう。それゆえ、「世紀」という単位に人は強い意味付けを求め、多くを振り返ろうとする。

 私は、今回のテーマについて、この、「身体的尺度」という観点に注目して考えてみようと思う。実は、我々の生きた二十世紀というのは、行動や思考のサイズが、この身体的尺度から爆発的に乖離してしまった時代だったとも言えよう。もちろん、生身の体のサイズは、身長、寿命ともにそれほど変わったわけではないが、身体を延長して可能な行動とそれに伴う思考のサイズが、巨視的にも、微視的にも、爆発的に変貌した。それは、今世紀の数々の事件が、地球史規模のエポックであったことが如実に物語る。
 二十世紀は戦争と革命の時代だと言われる。戦争と革命は、過去に幾度も繰り返されてきたわけだが、今世紀の戦争のなによりもの特徴は、身体的尺度を極端に超越した破壊規模であろう。二つの大戦を通じてなされた大量破壊や大量殺戮。経済体制のヘゲモニー争いが、地上の生命を滅ぼしかねないような行動に繋がったかもしれないこと。身体的尺度の単純な延長では、絶対に起こしようもないことが、できてしまうし、やってしまっている。人間の行動サイズは、今世紀を通じて、少なくとも地球サイズにまでは拡張した。部分的には、太陽系サイズまで、とびだしている。二十一世紀はこの成長をさらに加速しながら継続していくのであろう。
 この巨大な破壊力は、巨大な生産力に支えられている。巨大な生産力はまた、瞬時に全世界を駆け巡れる経済行動の拡大にもささえられている。物と物との交換という身体的サイズの行動から成長して爆発的発展を遂げた資本主義は、もはや国民経済という規模を完全に凌駕してしまった。この先どのように人類の運命を揺さぶっていくのだろう。地球に出現したこのシステムは、少なくとも、火山や地殻変動のような力よりもはるかに強力に地表の形を変えてしまう力をもっている。対立的にとらえられてきた生産と破壊は、実は表裏一体のものであった。地球規模の生産は地球規模の破壊をもたらした。何億年もかけて蓄積された天然資源はこの100年という身体的時間尺度の中で消費されまくり、大気の性質さえ変えてしまおうとしている。
 ところで、巨大な行動力というのは、微視的行動力に支えられていたりする。今世紀、我々は、物理学的にも生物学的にも、微視的行動力を大幅に増長させ、生産分野や医療に大きな力を与えた。
 純粋な理論ということで言えば、微視的には素粒子の研究が進み、その成果をもって宇宙全体の歴史をある程度実証的に言及できるほどになった。ここで、喚起すべきは、単に対象の微小さや巨大さだけのことではないということである。そこでは身体的尺度の範囲で得られる概念そのもの(例えば時間とか空間等)が超越してしまっている。単なる空想に頼っていた時代は、微視的にも巨視的にも身体的尺度の範囲で得られる概念に強く縛られていた。少なくとも、今世紀、我々は、そんな概念の限界から飛躍しなくてはならないことをいくつも学んだ。因果律のような、一見、超越的な普遍概念すら、実は身体的尺度の範囲で得られる概念に拘束されていたのだ。ある限界を超えれば、常識的な因果律はもはや通用しなくなる。
 今世紀、飛躍的な成長は、人と人との交信能力にも、現れている。人類は身振り、発話という原初的形態から、文字を使うという時代を経て、ついに電磁気を媒体にした通信手段を発明し発展させることによって、距離や時間の制約を一気に打ち破った。マスコミは、大衆の力量を良くも悪くも、増大させた。民主主義も全体主義も、どちらもマスコミのパワーを背景にしなければ、成長しなかったであろう。そして、今世紀の最終段階で、この交信能力は、これもまた今世紀出現した人の思考能力の一部を高速に代行しえる機械と合体するに至った。思考も、コミュニケーションも我々は、身体的尺度の範囲を大幅に拡大してしまっている。この能力が、今後さらに遺伝子研究や脳研究の成果をも吸収していくのだろう。「人類というシステム」はいったい地球上(あるいは宇宙)に何を構築しようとしているのだろう。だが、この人類というのは、とどのつまり遺伝子システムの成果物の一つであるにすぎなかった。そういう謙虚な自覚すら可能なこの脳システム...

 ふと、気が付くと、日夜、仕事の納期に追われてあたふたしている自分という身体サイズの存在がここにある。20世紀は、人類の力の巨大な成長の果てに、身の程の心と体が少なからず置き去りにされてしまった感はある。そして、「今」の「自我」という最高の謎は、来世紀に持ち越された。
 最後に、もし、身体サイズの概念をもって、今世紀を、「夢」や「野望」や「理想」の名のもとに暴れまくった「人類の青春時代」だったと、形容するのならば、次の世紀に求められる課題とは、地球サイズにおいても、身の程サイズにおいても、「大人のバランス感覚を持て」というようなことなのだろうか。
 いずれにせよ、私の生活はいつも通り、そして地球も太陽もいつも通りの今日このごろである。



   2000年2月


戻る