チャート方式・『四次元時空の哲学』入門 (1)

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 本書の全体構成
 本書は、4章構成になっており、小著ではありますが、一応、スタンダードな哲学体系のスタイルを意識して、各章は、以下のような位置づけになっております。
(図01_1)本書の全体構成1

 これを少しだけ、ブレークダウンして説明します。

(図01_2)本書の全体構成2

   第1章では、相対性理論について、その理論の本質は、「同時刻の相対性」(唯一絶対の「今」はないということ)にあるとし、相対性理論に登場する「四次元時空」は、同時刻の相対性に基づいて考えれば、実在するものと判断するのが理に適っていること、その延長で考えれば、時空内の事象は過去から未来にわたって、すべて具体的に決定されていると考えるしかないのではないか、という「時空的決定論」の世界観が提起されます。
(本章の内容の一部は、当サイトの「同時刻の相対性をめぐる諸問題」などにも記述してあります。)


 第2章では、話題を一転して「アキレスと亀」に代表されるゼノンのパラドックスを取り上げ、「実在する四次元時空」の前提のもとではパラドックスは消失するのではないかという指摘をします。

 しかし、幾何学的には、四次元空間には、卵を割らないで中身を取り出せたりとかの性質があるはずで、四次元が実在しているのにそういうことが起きないのは何故なのか、という点について論及します。第1章が物理学的、存在論的テーマを扱うとすれば、第2章は、やや数学的、論理学的テーマが中心です。
(本章の内容は、当サイトの「アキレスと亀」に該当します。)

 第3章では、認識論上の問題が主題になります。第1章で描き出されたいわば空間化された客観的時間像は、「持続」とか「流れ」とかで表現されるわれわれの意識下にあらわれる時間表象と、たいへん乖離しているという事実に焦点を当てて考察を進めます。確かに、物理学が提供する時間像は、日常的な時間意識とはまるでかけはなれています。しかし、私は、物理学が解明した世界像を単なる虚偽意識だとして退けたり、まったく別物として二元論的に解釈したりする立場はとりません。感覚されている色彩と光の波長の関係モデルのように、意識の事実は、認識主体側の高次の構造・機能が介在した現象であるとしてとらえる、科学者がごく普通に採用している立場に基づいて追求します。

 それで、世界モデルとして、「流れる時間意識」が客観的四次元時空の構造内に実現されているあり方を考えることが必要になってきます。私は、意識というものの基底構造は、客観的に存在している時空を過去方向から未来方向にスキャンしているものとして捉えるのが論理的に妥当ではないかと考えます。この「時空スキャナー」としての自己意識は、過去から未来にわたって、すなわち生まれた時から死ぬ直前まで、無数に存在していることになります。これが相対論の相対的同時性の世界モデルと照応するのです。

 この考察から、「速度」という概念には、二種類あることが指摘されます。一つは、時空内世界線間の「客観的物体間速度」(世界線間の角度)であり、これが、普通にいうところの物体の「速度」です。もう一つは、「時空をスキャンする意識の速度」で、これは、意識が「瞬時」として自覚しうる時間間隔の規模で表されるのではと考えます。
 この章では、タイムトラベル時間の方向についての問題も扱われます。


 第4章では、倫理学の分野である自由の問題に、取り組みます。それは、3章までの展開において論じられた「時空的決定論」のもとでは、われわれの自由は完全に否定されてしまっているかのようであり、自由問題への言及は避けて通れないと考えられるからです。

 そこで、私は、「自由であること」の意味をあらためて問い直すところから立論していきました。つまり、「決定されているか、いないか」ということが、本当に「自由であるか、そうでないか」の指標として妥当なのか、という点を問います。思想史的には、必ずしもそうではないことはわかっているのですが、あれこれの人生パターンの比較考察なども交えて、自由意志が自分の行動をどうとでもできるかのような状態が必ずしも「自由」の名に値するものではないことを身近な反省から掘り起こします。

 そして、現実的な意味で、「自由であること」と「力があること」とには強い相関があり、「力」概念分析が「自由」の問題を考えていく上での重要な鍵となるのではないかという点を指摘します。そしてこの観点から、自由であるか否かを四次元時空内の存在者の「力」の様態として、捉えていく試みを提示しました。ただ、ここで「力」と言っても、それは物理的力概念に還元できるものではなく、力概念の持つ複雑さが喚起されます。

 しかしながら、以上の路線は、所詮「客観的自由」の究明でしかなく、具体的な唯一性を運命付けられた、時空をスキャンする自己意識の視座が欠落してしまっており、「主観的自由」を考える別のアプローチもまた必要ではないかということで、「存在」と「当為」をめぐる倫理学上の基礎問題を考えていくといった展開になります。


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